6月の花 など










梅雨は星空が見られることが少なくて、なんともやりきれない思いをする季節
しかしこの季節、花たちは実に生き生きとした姿を見せてくれる
蒸し暑さに閉口しながらも、花と出会うとつい顔もほころぶ。ましてや毎年同じ場所で同じ花と出会えることはとても嬉しいことだ

そんな花の1つにこの花がある

カキラン(柿蘭)

6~8月の花期に黄褐色の花を付け、下から順に開花する。和名の由来は花の色が柿の実の色に似ていることによる
よく見ると唇弁に紅紫色の模様があることに気づく

山地の湿り気のある草地や湿原、湿地に分布するが開発などによって湿地、湿原の減少のため分布域は狭まっている。日本では県によっては絶滅危惧種に指定されていたり、埼玉県のように既に絶滅したと考えられてるところもある。心ない盗掘も絶えないという

上の2点の写真は同じ花を撮ったもの
光の当たり方によって印象が異なることに注意してほしい

自然環境の中では光の条件は刻々と変わっていく。1枚撮って満足するのではなく、その変化を敏感に感じ取り一瞬を逃さない感性を持ち続けたい
そんなことを自分に言い聞かせている

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(上の写真)


ISO800、f8、1/100秒、90mm、オートWB、Raw、手持ちで撮影
SONY α7RM5 + FE 90 mm F2.8 Macro G OSS


(下の写真)

ISO640、f8、1/100秒、90mm、オートWB
Raw、手持ちで撮影
SONY α7RM5 + FE 90 mm F2.8 Macro G OSS






 コバノトンボソウ(小葉の蜻蛉草)


よく見過ごされそうになるほど目立たない花
花期は6~8月で、山地から亜高山帯の湿地などに生育する

よく似た花にホソバノキソチドリ(細葉の木曽千鳥)がある。昔、この2種の植物の区別がつかなかった
よくよく観察するとホソバノキソチドリは距が下垂することが多いのに対して、コバノトンボソウは距が後方に跳ね上がることから区別できることに気づいた。この写真からも距が後に跳ね上がっていることがわかる






ハッチョウトンボ(八丁蜻蛉)の雄





ハッチョウトンボ(八丁蜻蛉)の雌






 ハッチョウトンボ(八丁蜻蛉) のペア (上……雄、下……雌)







ハッチョウトンボと伊藤圭介 については、これまでたびたび触れてきたので以下を参照願いたい


伊藤圭介編『錦窠蟲譜』に描かれたハッチョウトンボ
http://ibidani-miharu.sakura.ne.jp/202107shiga/202107shiga.html

ハッチョウトンボ(八丁蜻蛉)雄の腹部挙上姿勢
http://ibidani-miharu.sakura.ne.jp/202108shiga/202108shiga.html


ハッチョウトンボの和名の命名者は江戸時代末尾張の本草学者で尾張藩奥医師大河内存真。大河内がシーボルトに贈った『蟲類冩集(ちゅうるいしゃしゅう)』の説明書に「八七、ハツチウトンボ。(中略)これは日本に於もヤダノテツポウバハツチウメ(矢田鉄砲場八丁目)にのみ発見せられ、その為にハツチウトンボの名を有する(雄)。」とあり大河内が和名の命名者であることがわかる。以前にも触れたように大河内存真の実弟が伊藤圭介である

大河内存真がシーボルトに贈った『蟲類冩集』(稿本)は「シーボルト蒐集日本図書目録」にあり、オランダ国内所蔵の和書の目録『Catalogue of pre-Meiji Japanese books and maps in public collections in the Netherlands : オランダ国内所蔵明治以前日本関係コレクション目録』に“154.[CHURUI SHASHU 虫類写集]”、“Illustrator:Okochi Sonshin 大河内存真(1796-1883)”と書かれている(レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000077301)

現在放送中のNHK連続テレビ小説「らんまん」が好評だという。こちらはなかなかリアルタイムでは見られないが、ときどきNHK+で見逃し配信を見ている
「らんまん」は日本の植物学者牧野富太郎をモデルにしたオリジナルストーリーで、主人公は槙野万太郎として描かれる

伊藤圭介について改めて触れるには訳があり、どうやらこれからの「らんまん」に伊藤圭介の孫が若き植物学者伊藤孝光という想定で登場するらしい
史実としては伊藤圭介の孫で植物学に進んだのは、後妻貞の五女小春の子伊藤篤太郎(1866-1941)と本家を相続した恭四郎の子の伊藤秀雄がいる。伊藤秀雄は岐阜高等農林学校(後の岐阜大学農学部、現応用生物科学部)教授。伊藤篤太郎はトガクシソウ(別名、戸隠升麻)という日本特産の1属1種を日本で初めて学名を付けた人物として知られる

トガクシソウは別名を破門草という
「らんまん」で描かれるかどうか分からないが、伊藤篤太郎は叔父の伊藤謙が戸隠山で採集し、小石川植物園に栽培した標本を1883年にロシアの植物学者マキシモヴィッチに送っている。マキシモヴィッチはこれをメギ科ミヤオソウ属として発表している。ところが東京大学植物学教室教授矢田部良吉も1886年に小石川植物園で開花した同種標本を1887年にマキシモヴィッチに送り、新種であるとして Yatabea japonica Maxim という学名を付けようとした。伊藤篤太郎はこれに驚き、 Ranzania japonica (T.Itô ex Maxim.) T.Itô (1888) という学名で1888年に矢田部に先んじて公表した。新種発表の後となったため学名が無効となった矢田部良吉は伊藤篤太郎に激怒、伊藤篤太郎を破門し、植物学教室への出入りを禁じた。これがトガクシソウが破門草と呼ばれるようになったいきさつで、この事件を破門草事件という

はたして「らんまん」ではどのように描かれるのだろうか

ところで戸隠升麻は幻の花と言われる割には栽培は難しくないらしい。長野県で出会った花を私のページでも度々取り上げている

(6/25記)



牧野富太郎と伊藤圭介


牧野富太郎の書いたものを読んでいると伊藤圭介の名が度々登場することに気づく

1956年に刊行された『牧野富太郎自叙伝』(講談社学術文庫に収録)の第1部に破門草事件が綴られている。そこには「ことの真相を知っているのは今日では私1人であろう」として事件の顛末が記されている

さて『自叙伝』第2部冒頭に「所感」と出した文が掲載されている

「われらの大先輩に本草学、植物学に精進せられた植物学者の錦窠翁伊藤圭介先生があった。珍しくも九十九歳の長寿を保たれしはまず例の鮮(すく)ない芽出度い事である。しかるに先生の学問上研鑽がこの長寿と道連れにならずに、先生の没年より遡りておよそ四十年程も前にそれがストップして、その後の先生は単に生きていられただけであった。(後略)」

と記し続いて

「(前略)先生の研究は直言すれば死の前早くも死んでいるのである。学者はそれで可いのか。私は立ちどころにノーと答える事に躊躇しない。(後略)」

とする。自身の健康と学問への意欲に満ちた文に圧倒される

天文民俗学者野尻抱影とも牧野富太郎は接点があった。これについては稿を改めたいと思う

(6/25記)
















  伊藤圭介銅像
    名古屋市鶴舞中央図書館

 (8/4追記)




  伊藤圭介銅像
    名古屋市立丸の内小学校





台座背面には次の文字が刻まれている


この像は郷土の偉人
伊藤圭介先生を敬仰して
当校の子どもたちが
昭和三十一年以来おこづかいを節約して
毎月二十七日の記念日に
出したお金をもとにして
建てたものである

昭和三十六年三月十五日
(一九六一年)








 (9/12追記)



像の前に埋め込まれたプレートには次の文が刻まれている


伊藤圭介先生像
(1803-1901)

学区丸の内三丁目(呉服町)で出生。
世界的な博物学者で「おしべ」「めしべ」
の名付け親。日本で最初の理学博士。

            (日展理事 野々村一男 作)


見学の許可をいただいた丸の内小学校にはこの場を借りて御礼申しあげます。
                     (篠田通弘)

 (9/12追記)






空襲で焼失した石碑 「伊藤圭介先生生誕之処」


 伊藤圭介生家跡には「伊藤圭介先生生誕之処」と刻まれた石碑が建てられていたが、戦災で焼失している。
 焼失した石碑の碑文を以下に掲載する。
 なお碑文は杉本勲『人物叢書 伊藤圭介』(1960年)による。




  建設地 名古屋市東区呉服町二丁目四番地

本邦植物学ノ泰斗東京帝国大学名誉教授従四位勲三等理学博士男爵伊藤
圭介先生ハ享和三年正月二十七日コノ家ニ生レ明治三年歳六十八ニシテ東京
ニ移ラルルマデ住居セラレタリ当時先生ガ天体ヲ観測

 (以上左側面)


 伊藤圭介先生生誕之処 (正面)


セラレタリと云フ十二花楼ハコノ南隣ニ今猶遺構ヲ存シ後庭ニハ書庫物産庫ニ充テラレ
タル土蔵及ビ遺愛ノ薬樹数株アリ天保嘉永ノ頃高野長英等憂国ノ士亦縷々来訪シ倶ニ泰
西ノ学ヲ講究セリト云フ


  昭和十四年一月二十七日
     伊藤圭介先生遺蹟顕彰会建立
         門人 七十八歳 梅村甚太郎書

 (以上右側面)


※碑文はすべて縦書



※岩手県奥州市立 高野長英記念館 のHPには高野長英と伊藤圭介の関係について紹介されている。それによると、長崎から江戸にもどる途中の天保元(1830)年10月に高野長英は伊藤圭介を訪ねて旅費を借用している。


(9/16 篠田通弘追記)