2021年3月14日

金生山明星輪寺 奉納算額(岐阜県重要民俗文化財) 一般公開されます


上図は、リーフレット「和算塾算光堂と明星輪寺奉納算額」より



金生山明星輪寺には元治二年(1865年)に和算塾算光堂の塾主浅野五藤治孝光と門人たちが奉納した算額が保存されています。算額には12題の算題が記され、今なお鮮やかな色彩を残しています。
岐阜県重要民俗文化財の算額は普段は公開されていませんが、このほど下記の日程で一般公開されることとなりました。

 ○主 催    金生山明星輪寺
 ○期 日    2021年3月14日(日)
 ○公開時間  9時から16時まで
 ○公開場所  明星輪寺庫裏
 ○事前申込み 不 要
 ○参加費    無 料


 公開日の3月14日は3.14にちなんで日本では円周率の日(数学の日)とされています。今回の一般公開はこの日にちなんだものです。
 ところでバレンタインデーのお返しの日(ホワイトデー)として、クッキーなどを贈る習慣があるようですが、世界では円周率にちなんでパイ(π)を贈るところもあるとか。算額の見学後は、ご自宅でパイをいただきながら問題を解いてみる、そんな春の一日はいかがでしょうか。

 当日参観された方にはリーフレット「和算塾算光堂と明星輪寺奉納算額」を用意しました。算額の概要の他、和算塾算光堂に学んだ少年少女などの門人たちと、この算額の意義を紹介しています。
 また幕末の門人たちがどのような問題を解いていたかを知っていただくために、算額の第六問題を現代の数学で解いた解法を掲載しました。この問題は釜笛村(現大垣市釜笛)の臼井嘉七繁光が問い糾し、割田村(現大垣市割田)の奥田津という女性が答えています。リーフレット掲載の現代的解法では、中学校数学による解法と、高校数学Tによる解法をともに紹介していますので、中学校3年生から理解できる内容です。

 またこのリーフレットとは別に円周率に関係する大学入試問題と、これに対する複数の現代的解答例も用意しましたので、興味のある方はどうぞお取り下さい。

 問題を解いていると、幕末の和算塾で学んでいた門人たちと一緒に問題を解いているような不思議な気持ちになります。

 宮城県の高橋積胤は最後の和算家と言われた人物です。最上流を継承し、明治35年に魔方陣「三十方陣」を作成し、今に残しました。積胤は農家に生まれ。家の手伝いをせずに、山形の寺子屋まで和算を学びに行ったそうです。子どもが労働力だった当時、家族から「勉強する暇があるなら仕事を手伝え」と文句を言われ続けながらも勉強を我慢できなかった積胤。勉強に熱中して、いくら親にやめろと言われても勉強せずにはいられない。だからこそ勉強の成果もあがったのでしょう。
 積胤が残した魔方陣は高橋家に100年間は開けるべからず、とされた遺品の一つでした。好きで学び続けた和算が、高橋積胤の人生をいかに豊かにしたかをこの魔方陣は語っているように思えます。

 明星輪寺奉納算額からいろいろ考えさせられます。

 和算塾に学んだ門人たちは、点数をとるために勉強していたのではありません。ましてや受験に備えて数学を学んでいたわけでもありませんでした。深川英俊先生が講演録『和算と算額』で紹介されているように、老若男女の別なく、実に楽しく数学を学んでいる様子に驚愕します。全国に残された算額には、先生がいないと勉強そっちのけで喧嘩を始める子どもたちの姿までもが、実に生き生きと描かれています。もちろん誰からも学級崩壊だなんて言われることもなかったでしょう。みんなが前を向いて勉強する「一斉授業」はこの時代の和算塾にはなく、今よりもはるかにおおらかに、一人一人それぞれが楽しく数学を学んでいた姿を見て、私などは大きな衝撃を受けます。
 明治の学制によって和算は廃され洋算に変わり、現代の教育へと続く流れが作られました。そして気がつけば、受験のためだけに数学があるかのような風潮に、戸惑いを感じてしまいます。

 和算が到達した数学の水準は円周率の桁数一つとっても驚異的なものでした。中学校歴史の教科書に登場する和算家関孝和は、円周率を314159265359微弱(最後の9は切り上げ)と12桁まで正確に求め、後に増約術と呼ばれる方法によってこれを計算しました。これはニュージーランドの数学者アレクサンダー・エイトケン(Alexander Aitken、1895-1967)が発見したエイトケンΔ2乗加速法と同じ原理で、先立つこと約200年も前のことでした。
 文政5年(1822年)相模国(現神奈川県)寒川神社に内田五観門下の入澤新太郎博篤によって算額が奉納されました。この算額は現存しませんが天保3年(1832年)の『古今算鑑』に収録されています。そこに入澤は3題の算題を奉納していますが、そのうちの一つが6球連鎖の定理に関するものです。この定理はイギリスの化学者フレデリック・ソディが1936年に『ネイチャー』に発表した定理で、「ソディの6球連鎖の定理」と呼ばれます。フレデリック・ソディの発見に先立つこと100年以上も前にこの定理は発見されていたのです。ちなみにフレデリック・ソディは1921年に原子核崩壊の研究と同位体の理論でノーベル化学賞を受賞しています。ノーベル賞級の数学の成果に江戸時代の和算は到達していた、ということです。

 明星輪寺算額には12題の算題が記されています。第十一問題は安島・マルファッティの定理に関するものです。第三問題は数え年16歳の少女・河合澤が出題していますが、私など素人には全く歯が立たない難問です。どうか挑戦してみてください。

 算額一般公開では、数学を楽しんで学んでいた先人たちの思いを算額から感じ取っていただけると幸いです


                                           (2/25記 Photographer 篠田通弘)

※ 一般公開の問い合わせは、金生山明星輪寺まで。

                                            


【本の紹介】

江戸時代の和算・天文学・科学史を知ることができる次の一般向けの本を紹介します。
最初の3冊は小学校高学年であれば十分読める児童文学ですが、むしろ大人が読んだ方がいい本です。ここに紹介した計4冊、1週間かからずに読み切りました、というか読み出したら止まらない本ばかりでした。未だ知らないことが多すぎることを思い知らされました。


●鳴海風『円周率の謎を追う 江戸の天才数学者・関孝和の挑戦』(2016年)

作者はデンソーで長くエンジニアを務めた技術者。
和算家関孝和の生いたちには謎が多いようですが、想像力を働かせてその生き様を描いています。同じ時代を生きた和算家も登場し、和算の歴史をたどることができます。また作者は技術者だけあって、エイトケンΔ二乗加速法などにも触れています。
関孝和の生き方について、作者は最後にこう述べています。

−−西洋では、最初の理論の発見者が、それに自分の名前をつけて名誉としたのに対し、江戸時代の数学者たちは、そのようなことを考えもしなかった。かれらはただ数学が好きで、真理を知りたかっただけである。−−−

目頭が熱くなります。


●鹿毛敏夫『月のえくぼを見た男 麻田剛立』(2008年)

月面のクレーターには過去の偉大な科学者や天文学者などの名前がつけられていますが、その中にクレーター・アサダがあることをご存じですか。
麻田剛立は18世紀の日本の医師、天文学者。関孝和より少し後に生きた人。
杵築藩主の侍医でありながら大坂へ出奔。反射望遠鏡を使って月面の詳細な観察図を残しています。また、ケプラーの第三法則「惑星の公転周期の二乗は、太陽からの平均距離の三乗に比例する」を独自に発見したことでも知られています。
児童書ですが、その生き方には大人が読んでも心引かれるものがあります。

作者は現在名古屋学院大学教授、同書で児童文学賞の一つ第四回福田清人賞を受賞。2009年の青少年読書感想文全国コンクール課題図書にも選定されています。


●岡崎ひでたか『天と地を測った男 伊能忠敬』(2003年)

伊能忠敬が蝦夷地測量への第一歩を歩き始めたのは寛政十二年(1800年)閏四月十九日。忠敬55歳のことでした。
幼い頃から和算に目覚め、家督を譲った後に天文暦学を学び、その後の生涯を歩測による実測による日本全図作成に費やしました。忠敬は地球一周にも近い3万5000qを歩き続け、「大日本沿海輿地全図」(伊能図)を完成させました。最後に江戸府内地図を作成して上程したのが文化十四年(1817年)、忠敬72歳。翌文政元年に73歳でこの世を去っています。
「大日本沿海輿地全図」(大図214枚、中図8枚、小図3枚、計225枚)が完成したのが文政四年。高橋景保が忠敬の孫の忠誨をともなって登城上程し、この事業は完結しました。

この本には出てきませんが、伊能忠敬7次測量日記第14巻によると中山道美江寺宿に宿泊し、恒星測定を行っています。中象眼儀で恒星の高度を測り緯度を測定する測定は、忠敬の主要な天体観測の一つでした。
美江寺宿本陣の庄屋山本宇兵衛の名は、幕末の和算塾浅野五藤治孝光の門人帳にも見られ、明治になって八線表写許を得ています。


●鳴海風『星に惹かれた男たち 江戸の天文学者 間重富と伊能忠敬』(2014年)

最初の太陰太陽暦を作った渋川春海、ケプラーの第三法則を発見した麻田剛立とその弟子の間重富と高橋至時、その弟子の伊能忠敬。星に惹かれた彼らの生涯を描いています。
彼らはいずれも、自然界で起きていることを顕微鏡や天体望遠鏡、測量器具をつかって詳細に観察し、実証的に自然界の原理を求めようとした科学者でした。

作者はあとがきに『言志四録』の一節

少にして学べば、則ち荘にして為すことあり。
荘にして学べば、則ち老いて衰えず。
老いて学べば、則ち死して朽ちず。

を紹介しています。
この一節を書いた儒学者佐藤一斎は若い頃、間重富の家に寄宿していました。その時から間家、高橋家との付き合いが一生続いたと言われているそうです。