金華山(330m)
2004年1月4日
岐阜県本巣郡本巣町法林寺文殊の森より


レリーフの等高線は20m。
昨日は寒くはなかったが、一日時雨れていた。今朝目を覚ますと青空が広がっていた。なぜかそんなに寒くない。そうなったら山へ行かねば気が済まない。元日に行こうとしていた権現山のハイキングである。写真左は根尾川左岸堤防から見た権現山。文殊の森の駐車場には数台の車が止まっていたが、ハイキングという感じでもなさそう。今日は静かな山行きとなりそうな予感である。10時10分に文殊の森を出発する。
林道を歩くがなんだか日だまりの中を散歩しているような気分になる。なんと言っても吹く風が心地よい。ん?これが寒入りを目前に控えた真冬か?なんだか変だ。のんびり歩くと、林道の舗装部分の終点に着く(写真右、10時33分)。ここに簡易トイレが置かれている。林道は車止めからさらに延びているが、今日はここから尾根道を歩く。
尾根道を登り始めるとすぐに「山口城跡」の碑が目に入る。権現山は山口城跡でもある。丸太階段はなだらかな尾根につけられている(写真左、10時34分)。しばらく歩いて西を見ると、池田山の向こうに白銀の伊吹山が見え始める(写真右、10時38分)。いつもなら池田山の中腹以上も雪で覆われているはずなのに、池田山の雪はすっかり溶けてしまったようだ。
丸太階段はやがて急傾斜となるが、一息で「中ノ城跡」に着く(写真左、10時42分)。中ノ城跡には展望台が設けられている。中ノ城跡は山頂一帯の中心曲輪の前面に腰曲輪が設けられている。腰曲輪にはベンチが据えられていて、休憩できるようになっている(写真右)。
中ノ城跡の中心の曲輪に立つ展望台から濃尾平野を見下ろす(写真左)。中ノ城跡からの眺望は根尾川とこれに合流する揖斐川、そしてその向こうに養老山系とその奥の霊仙山と、低山ながら満足度は高い。南東を見ると累乗たる山並みが低山であることを忘れさせてくれる(写真右)。右手奥は金華山である。
さて、中ノ城跡の遺構はよくわからない。地元では権現山から東の祐向山に連なる3つのピークを西の城、中の城、東の城と称しているが、この中ノ城は地域が伝承する「中の城」とは異なり、山口城と関連を有する遺構と考えられている。写真左は主郭内部であるが、平坦に削平されているがその肩は明瞭でなく、不十分な削平地となっている。また、南面は急峻な地形に頼んで腰曲輪を配するだけの構造である。ここから山口城跡までは鞍部をはさんで一息であるが、鞍部には堀切は設けられておらず、中ノ城跡が山口城跡と一体となった遺構であることを物語っている。ここでしばらくのんびりした後に、山口城跡がある権現山山頂へ向けて10時49分に出発する。鞍部へ至るなだらかな尾根道を下りると、すぐに極めて急峻な登り返しの丸太階段が続く(写真右、10時52分)。ところで登り返しの手前の鞍部には削平地が階段状に設けられている。詳細には踏査できていないため慎重な判断が求められるが、同時期の遺構であるとするならば、一時的な居住空間として設けられた可能性もある。
ところでその丸太階段だが、恐ろしく急峻な階段である。なんと言っても山口城跡に至る本来の道と全く無関係に、無理矢理整備されているから、たまったものではない。これは整備ではなく、遺跡の破壊にも等しい行為であり、極めて残念なことと言わざるを得ない。自然や遺跡を大切にしながらの登山道の整備はどのようにあるべきか、今一度考えたいものである。丸太階段をよじ登るように歩くと、腰曲輪に着く(写真左、10時54分)。ここにもベンチが据えられている。そしてさらに主郭へ至る斜面を、これまた遺跡を破壊して付けられた丸太階段を上ると、権現山山頂(山口城跡主郭)である(写真右、10時55分)。
山頂には四等三角点が埋設されている。国土地理院の「点の記」によると点名は「法林寺」となっていて、所在地は本巣町大字法林寺字北奥383の1番地とある。三角点にはポールが立てられていて、四方も切り開かれていて最近測量が行われたらしい。おかげで昨年ここを何度が訪れた時には見えにくかった周囲が、今日は少し見ることができた。写真右は北方向を見た所。小津権現山の頂が白く顔を出している。
樹林の間からは能郷白山が顔を見ている(写真左)。この山が権現山と呼ばれる所以だろう。振り返って南を見ると根尾川が濃尾平野へ流れ出す、その広大な扇状地が真下に見える(写真右)。
山頂でしばらくのんびりした後、昨年行くことかできなかった南井戸跡を訪れることとした。主郭から南西へ伸びる尾根を少し下りた所にあり、現在でも水をたたえている(写真左)。井戸の周囲には土手が築かれている。山口城の水の手である。この水の手曲輪の削平は不十分であり、その先は尾根の自然地形となっていて、堀切などを設ける様子はない。あたりをしばらく歩いてから、主郭へ戻ることにする。山頂ではコンロで湯を沸かし、コーヒーを飲む。久しぶりに山でのんびりしたひとときを過ごす。11時50分、山頂を後にして下山。帰路は往路を戻り、文殊の森へは12時25分の到着だった。下山後に権現山と祐向山の山塊を振り返った(写真右)。

*山口城跡は1991年に本巣町教育委員会によって実測調査がなされている。調査担当は三重大学であり、1992年に報告書が刊行されている。山口城跡は土造りの山城であるが、土塁や堀切、竪堀などの遺構を全く認めることができない山城である。その構造は山頂一帯を削平して主郭とし、その周囲に腰曲輪を配するというもので、急峻な地形を生かした自然の要害となっている。主郭南には虎口が開いているが、この虎口は食い違い虎口の様相を見せていて、戦国時代の改修を見て取ることができそうである。周辺の山城群との関係などいろいろ述べたいことはあるが、他の山を紹介した時に譲りたい。