2003年11月2日
福井県福井市城戸ノ内町より

秋の3連休の中日。さわやかな低山歩きを期待して、歴史豊かな福井県一乗谷朝倉氏遺跡へ出かけることにした。2004年正月のNHKドラマ「大友宗麟」のロケ地として復元城下町が使われているそうで、たいそうな観光客は覚悟しなければならない。それならばと、昨春に一度歩いた一乗城山をこの機会に歩こうと、木之本インターから北陸道に入った。一乗谷の駐車場に着いたのが10時30分頃だったが、思ったよりも空いていた。観光客の不思議そうな視線を受けながら、我々4名は登山靴に履き替え、山歩きの身支度。さすがに30リットルのザックは持たないが。10時40分、朝倉館跡をちょっとだけ見学し、山門を撮影(10時40分、写真左)。この山門は朝倉館の門ではなく、朝倉義景滅亡後に彼の菩提寺松雲院の唐門として設けられたもの。朝倉義景館では「御門」と称されていた。御門の両側は土塁で固められ、写真から左へ土塁をたどると櫓台も残っている。土塁の外は水濠で囲まれている。さて、ついつい時を過ごしてしまいそうになるので、先を急ぐ。今日のメインはこの一乗谷の背後に詰めの城として築かれた一乗城山である。「馬出」という地名が残る、大手筋と考えられる登山路を選ぶ。八幡神社の横を通る林道をしばらく歩く(10時54分、写真右)。
しばらく林道を歩くと、登山口を示す標識が目に入る(10時58分、写真左)。ここから林道を離れて登山道に入る。登山道は水が流れ落ち、昨年の春ほどではないが、結構滑りやすい。秋の落ち葉がある分、多少は滑りにくいというものの、登山靴で正解と思えてくる。おまけにかなりの急勾配である。登山道の左右には大小さまざまな曲輪が多数認められ、大手筋を固める施設の存在がうかがわれる。さらに進むと、小見放城跡と呼ばれている、砦跡が登山道右に現れる。もちろん、すべて土造りの中世城郭である。登山道を離れて、斜面をよじ登り、堀切をのぞき込む。一乗城山の主郭部分に伸びる尾根とは砦跡の主郭部分との実効深度が10mにも及ぶ巨大な堀切で、一乗城山の主郭部分に対する大手筋の堅固な守りが実感される。11時13分、線刻された摩崖仏に到着(写真右)。三体の線刻仏が刻まれている。
11月のさわやかな山歩きを期待したが、したたり落ちるのは汗。なんだか2ヶ月近くも逆戻りしたような気分である。それでも登山道をよく見ると少しずつ秋の気配を漂わせている、というよりも紅葉前に落葉する樹木が多いことに驚いてしまう。写真左は紅葉の雰囲気の登山道。やがて登山道は尾根を横切り、凹地地形に入る。尾根には削平地が認められ、詰めの城への虎口の役割を果たす曲輪と考えられた。凹地には不動清水と呼ばれている湧水地がある(11時49分、写真右)。ここしばらく雨が降っていないにもかかわらず、不動清水は枯れていなかった。詰めの城である一乗谷城の水の手。英林塚から登ってくる登山道と合流した後、千畳敷と呼ばれる広大な曲輪へ続く、細くて急な道はひと登りである。
11時57分、千畳敷着(写真左)。千畳敷を示す案内標識には「一の丸に至る」と案内されているが、まずはここで一息。千畳敷はその呼称の通り十分に削平された広大な曲輪で、向かって写真左のような周囲に土塁を持たない北曲輪と、この南に土塁を周囲に巡らせる南曲輪の2つの部分から成っている。土塁の有無は曲輪の機能の違いを意味しているのだろう。互いの曲輪は土塁に設けられた虎口で連結されている。土塁を持たない北曲輪は奥に一段高い方形部分を設けていて、曲輪内部の施設を思わせる。土塁を巡らせる南曲輪は北は山に、残る三方向は土塁を巡らせている。ここの標高は404m。曲輪内部を見学した後、西に張り出す「宿直跡」と呼ばれる部分へ向かう。千畳敷南曲輪から土塁を屈折させた狭い食い違い虎口を経て、樹木が伐採された「宿直跡」へ出た(12時04分、写真右)。見学者はこの山城で数少ない眺望のきくこの場所でお弁当、ということが多いらしい。誰もいないだろうと思って登ったが、千畳敷で高年男性が1人で登ってきておられた。我々もここで腰を下ろすこととする。眼下には一乗谷が見下ろせるほか、遠くまで十分な眺望がある。天正元年8月13日、刀根坂の合戦で信長に大敗した義景は、15日に一乗谷に退却している。しかし義景は、信長の越前侵攻前に大改修を加えたと考えられるここ一乗谷の詰めの城には入ることなく、平泉寺が味方することを期待して大野に退き、そのあげく一族の景鏡に裏切られて自刃している。信長の先兵は18日から20日にかけて一乗谷に侵攻し屋形、館、家々、仏閣、僧坊などをことごとく焼きつくした。この攻防戦が詰めの城にまで及んだのかどうか、記録は何も語っていない。もし詰めの城に守勢が立て籠もっていたとしたら、ここから迫り来る織田勢をどんな気持ちで見下ろしていたのであろうか、などと考えると何だか天正の頃にタイムスリップしそうである。
12時45分、のんびり過ごした「宿直跡」を離れ、千畳敷に戻る。ここから見学順路に従って、「一の丸」、「二の丸」、「三の丸」と案内板が表示されている通りに見学することにした。写真左は木漏れ日に秋の空気を求めて1枚。やっぱり秋らしくはない。千畳敷の曲輪から尾根を切る堀切を経て、「一の丸」へ至る尾根を歩く。尾根の両側は土塁が設けられ、「一の丸」と呼ばれる一段高い曲輪の周囲には、比高を稼ぐための堀がめぐっている。写真右は「二の丸」を過ぎて振り返った所。写真の右側が「二の丸」と称される主郭部分。左は南西へ伸びる尾根をカットした堀切との間に設けられた土塁で丸馬出状となっている。さらに「三の丸」と称されている部分に見学路は至るが、ここで引き返すこととする。標高は「三の丸」で407mである。昨春は山腹をよじ登って南に伸びる尾根に遺存する堀切や曲輪などの遺構を踏査したが、今回はここまで。13時に帰路に着く。
帰路は一乗城山に至る3つの登山道のうちの一つ、安波賀(あばか)への道を選ぶ。登山路が大手筋て゜あると考えられるのに対して、安波賀への下山路は搦め手筋に相当する。「一の丸」に戻り、ここから北に伸びる尾根を下る。「一の丸」から西へ伸びる尾根から下ると、堀切が1条設けられているが、その先は不十分な削平地がだらだらと続く。戦時の宿陣の機能を持つ部分であろうと考えられるが、その先は不十分で浅い堀切があるのみで、搦め手筋の防御は弱い。義景による大改修が間に合わなかった、ということなのだろうか。昨春の踏査時にはずいぶん注意したが、詰めの城の防御域を区切る堀切などの遺構は認められなかった。緩やかに下る広い尾根筋は、最後には急峻な谷筋へと変わり、13時49分安波賀へ下山(写真左)。一乗谷を固める下城戸の外に下山することとなる。安波賀への道の左右には、若干の人為的地形の改変を認められる他は自然地形であり、「馬出」からの道のように多数の曲輪が設けられている様子は認められなかった。下城戸の外に位置するということからも、これは当然といえるだろう。休憩所で自販機のジュースを一気飲みし、だらだらと歩いて駐車場に戻る。観光バスが何台も泊まる一乗谷朝倉氏遺跡は、朝よりももっと観光地と化していた。最後に朝倉館跡と背後の詰めの城を遠望した(写真右)。そこには気持ちの良い秋の空が広がっていた。

一乗谷城の遺構概念図※1971年、朝倉館跡をはじめとする一乗谷は上城戸、下城戸、一乗谷城も含めて国の特別史跡に指定された。翌1972年には朝倉氏史跡調査研究所(現在は福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館と改称)が設立され、今日まで発掘調査が進められている。私が初めて朝倉氏遺跡を訪れたのは1978年の9月下旬のことだった。今は廃村となった徳山村から冠峠を越して福井県へ入り、発掘調査が進められている朝倉氏遺跡を見学したこともなつかしい。発掘調査の進行に合わせて、平面整備にとどまらない町並立体復元事業も行われ、全国で唯一の「散策できる戦国城下町遺跡」として今も整備が進められている。詰めの城である一乗谷城は、国の特別史跡として登山道の整備も含めて必要外の整備は一切されておらず、遺構は極めて良好な状態に保たれている。これは大変好ましいことであるといえよう。登山道の案内板が不十分なせいか、あまりにも標高が低いからか、今回は3名と出会っただけだった。昨春は誰にも出会わなかったことが、とても幸せにすら感じられる。山へ、そして遺跡へ入らせてもらう、という気持ちを忘れずに、また機会を得て大切に歩きたいと思う。この時期の思いもかけない暑さには閉口したが、気分はさわやかだった(閑話休題はこちらから)。