金華山(330m)
2003年5月10日
滋賀県余呉町新堂の毛受の森より

行市山登山道入り口 登山道より見下ろす
いつもと同じように揖斐谷を北上し、八草トンネルを抜けると湖北。今日は余呉町の行市山を歩こうという計画。七々頭ヶ岳を歩いたり、呉枯ノ峰から田上山を歩いたときに、遠くにこの山が望めた。ずっと気になってはいたが、先日、賤ヶ岳の戦いで秀吉方の事実上の本陣となった田上山から、真正面に行市山を見てからは、どうしても歩いておきたい山の一つになった。はたして行市山の北国勢を指揮する佐久間盛政は、田上山をどのように見ていたのだろうか。そんなことを考えながらの山行きである。柴田勝家の身代わりとなり討ち死にした毛受(めんじゅ)兄弟にちなんだ毛受の森から、登山道に入る(7時56分、写真左)。猪垣がしてあったが、「登山する人はこのトタンをどけて入ってください。」という表示に甘えて、入らせてもらう。登山道は歩きやすいが、よく見かけるような丸太階段がつくられたり、必要以上の整備がされるということもなく、地域の方々がいかに歴史を秘めた山々を大切にしておられるかが伝わってくる。気持ちの良い山道が続く。8時25分、視界が開ける。写真右は中之谷山砦(現地標柱による)の曲輪東の犬走りから新堂方面を見下ろす。
橡谷山砦の主郭内部 突然寸断された登山道
犬走りから堀切へ入り、砦の主郭に相当する部分によじ登る。曲輪の周囲には土塁がめぐり、土塁の一角に方形の櫓台が設けられている。土づくりの急場ごしらえの砦ではあるが、櫓台が設けられていることは注目に値する。なお、現地標識は「中之谷山砦」となっているが、『滋賀県中世城郭分布調査7』では「橡谷山砦(仮称)」とされ、守将を金森長近と推定している。現地の標柱は原彦次郎長頼とある。主郭中央に三角点(368m)が埋設されている。小休止後、尾根を南へ歩く。城郭遺構が続く尾根の先が、突然林道で寸断されている(8時32分、写真右)。まるで現代の堀切だ。このあたりは遺構の存在が認められないことから、林道による破壊はまずないと考えていいだろうが、ちょっと残念である。
登山道より行市山を見る 別所山砦へ続く尾根の土塁
「現代の堀切」端から、初めて行市山を望む(8時35分、写真左)。行市山の左に見えるのは前田利家が砦を構えた別所山。現代の堀切へ降りて、ふたたび尾根へとりつく。少しずつ標高を上げていくと、尾根上には土塁が続いている(写真右)。別所山砦に付属するAAダッシュ砦と仮称されている地点。秀吉方に対する北国勢の防御ラインを目の当たりにする。土塁に沿った平坦地は、柴田勝家が整備した砦を結ぶ軍道でもあった。
前田利家が守った別所山砦 林道脇を通る
8時57分、別所山砦(写真右)。主郭周囲は土塁がめぐり、土塁も横矢がかかるように屈曲している。虎口周辺は食い違い虎口となる。かつての寺院跡を砦に改修したと伝えられる前田利家・利長の砦である。地形図で見る標高は444mとなっている。小休止の後、行市山を目指す。林道を下に見ながら歩くことになるが、笹が密集して少しばかり緊張(9時4分、写真右)。
行市山山頂 笹原の行市山山頂
行市山へは急登を過ぎると、行市山砦の城郭遺構がブッシュの中に散見される。行市山砦の中心遺構は山頂よりもやや南に下がった尾根上につくられている。堀切と土塁、食い違い虎口が発達した遺構である。それをすぎると、山頂に到着(9時40分、写真左)。山頂は笹原で、三角点が一角に埋設されている。笹原を見ていると、8月になるとマムシがうようよし出すのかも知れない、などと思ったりする。ブッシュの中を歩いてみると、鍵の手状の土塁が設けられているのがわかる。中央に行市山砦の解説板が立つ。守将の佐久間盛政は1万を超す軍勢を率いていた。おそらくは、ここから北へ延びる尾根上にも宿陣が設けられていたにちがいない。歩こうとするが、ブッシュがひどくて今日は断念。のんびりと時間を過ごして、9時48分に行市山をあとにする。
小谷への道から望む 林道から行市山を振り返る
岐路は往路を戻らずに、小谷への道を下る。今はあまりここを通る人もいないのだろうか、道はブッシュで隠れて、わかりにくくなっている。しばらく下ると、植林地帯に出た(10時55分、写真左)。山頂では春霞がかかったように見にくかった山々が、ここからははっきり見えた。七々頭ヶ岳も見える。しばらく下って、小さな谷を渡ってすぐ林道に降りた。谷には水があり、この道は水の手道でもあったのだろうか、などと考えたりもする。林道を歩いて、元の登山道に戻る前に行市山を振り返る(写真右)。
林谷山砦主郭の土塁 毛受の森
帰路は橡谷山砦から中谷山砦を経て、林谷山砦へと寄り道をした。林谷山砦は北国勢の防御ラインの最前線に位置する砦で、細長い尾根に土塁を450mにわたって延々と連ねている。林谷山砦の長大な土塁のほぼ中央に、両端を浅い堀切と土塁で区画した主郭部を設けている。写真左は主郭を区画する土塁。標柱は徳山秀現則秀の砦と表示するが、徳山氏を守将とする砦は別に考えられている。最前線の戦闘陣地であるこの砦の守将はおろか、砦の名称も文献には出てこない。このあたり一帯が林谷山と呼ばれていることから、林谷山砦と仮称されている。徳山氏は、現在では廃村となった岐阜県徳山村ゆかりの武将である。林谷山砦から元の登山道に戻り、毛受の森へ帰着した(12時30分、写真右)。

※行市山へは林道を車で上り、途中から登山道へ入ることもできる。今日山頂で唯一出会った京都からと言う2人連れは、林道を車で上ったという。しかし、林道では行市山をとりまく歴史に思いをはせることは難しい。登山道は過度な整備は一切されず、地元の方々の思いが伝わってくるような、気持ちのいい山だった。なお、賤ヶ岳の戦いに柴田勝家に与して城塞群を築いたのは、いずれも美濃ゆかりの武将たちである。徳山五兵衛(秀現)については不明な点も多いが、徳山村を離れて、五兵衛に従ってここに立て籠もった者はいたのだろうか、などと考えて、思いは駆けめぐる。行市山を愛してこられた地域の方々と、城塞群を独力で明らかにした先学に感謝の言葉しかない1日だった。