増山たづ子「すべて写真になる日まで」
会期が2014年7月27日(日)まで延長されました!
(最新の記事は、このページの最下段にあります)
(下は旧リーフレット)
「増山たづ子 すべて写真になる日まで」
(展覧会 IZU PHOTO MUSEUM)
※クリックするとPDFファイルが開きます。
2017年で徳山村廃村から30年を迎えます。
増山さんが徳山村の姿を残すために写真を撮り始めたのが、1977年10月10日。
管理人が徳山村で増山さんと出会ったのが、1978年4月。
それから数えると、40年近い歳月が流れようとしています。
増山さんは、村にあって心ある人と共に徳山村の歴史を語る会として村の自然と歴史と文化を語り継ぎ、記録に残そうとする優れた語り部でもありました。
増山さんの死去を知らせる2006年3月の朝日新聞紙面に、増山さんが徳山村で撮影した1枚の写真が大きく掲載されていました。
そこには、若かった頃の僕の写真がありました。
僕の中の時間はそれ以来ずっと止まったままでした。
そんな折に展覧会の案内をいただきました。
改めて増山さんが生前に撮り続けた写真の1枚1枚を見ると、歳月を跳び越えて村の姿が鮮やかに甦り、心が熱くなります。
懐かしさからではなくて、今だからこそやらねばならないことがある、と管理人は思っています。
僕の中の時間が動き始めました。
ぜひ一人でも多くの方にご覧いただけますように。
管理人は会期中の12月15日に講演をさせていただく予定です(篠田通弘)。
※※※※※※※※※ j●講演日程が決まりました(20130912追記)● ※※※※※※※※※
篠田通弘「“浮いてまった徳山村”とは何だったのか−廃村から30年を前にして−」
12月15日(日)午後2:30〜4:00(終了時刻は予定です)
定員50名、無料、申込先着順(お電話にてお申し込みください。055-989-8780)
会場:静岡県長泉町クレマチスアカデミーフォーラム(IZU
PHOTO MUSEUM隣接特別会場)
※※※※※※※※※ ●2013年10月1日中日新聞文化欄より(20131003記事とひとりごとを追記)● ※※※※※※※※※
※2013年10月1日『中日新聞』朝刊 クリックすると拡大画像が開きます。
増山展担当の研究員小原真史さんから新聞への掲載の連絡をいただいた。
増山さんが写真に何を残そうとしたのか、私たちが写真から受け止めるべきものは何なのか、改めて考えさせられる。
「すべて写真になる日まで」 いいタイトルだと思う。
中段写真はちょうど30年前のもの。
冬の到来を告げる雪がちらつく寒い日だった。
僕は大学を卒業した1978年4月に徳山小学校に赴任し、以後廃村までの9年間を徳山村で暮らした。
考えてみれば20代の全てが徳山村にあり、その後の生き方を含めてのすべてがこの9年間で決まったように思える。
徳山村とは何だったのか、僕は生涯を問い続けねばならないと思っている。
生涯一学徒でありたいと願う僕が、はからずも廃村に立ち会うこととなった僕が、やらねばならないことは多く残されている。
増山展担当は映像作家としても活躍する小原真史さん。
僕は幼児の頃の彼を知っている。
昨年9月に66歳の若さで亡くなった彼の父小原博樹さんには、僕が高校生の頃からお世話になってきた。
小原博樹と最初に出会ったのは、名古屋市見晴台遺跡の発掘調査現場だっただろうか。
考古学は何のためにあるのか、誰のためのものなのかを、名古屋の仲間たちと考え続けていた小原博樹だった。
まだ高校生だった僕にとって、彼らは「師」であり兄貴のような存在だった。
その仲間のうち岡本俊郎に続いて、小原博樹も失った悲しみは深い。
小原博樹と最後に会ったのは、2006年8月19日の暑い晩だった。
山梨県甲府駅前のコンビニで、翌日の鳳凰三山登山のための買い物をしていると、突然「篠田さん」と声をかけられた。
びっくりして、山ですか?と尋ねると、定年を翌年に控え同僚と旅行に来ている、と小原博樹は言った。
それが最後だった。
僕は1978年4月徳山小学校塚分校に赴任し、分校に併設された教員住宅に暮らしていた。
塚は揖斐川本流り最奥にある小さな集落だったが、5年間のうち全校児童数は最大でも3名という極小規模校だった。
休校になるまでの5年間を塚に暮らして、その後1つ下流の櫨原分校に2年、最後の2年間は西谷最奥の門入分校に勤務、計9年間を徳山村で暮らした。
そして村は廃村となったのだった。
小原博樹が最初に徳山村へ来てくれたのは、1979年のことだったと思う。
中学校の教員として、荒れる生徒たちと格闘していた彼だった。
東海の古代史研究者で、やはり見晴台遺跡を通して市民の考古学を創り上げようとしていたのが伊藤禎樹さん。
1978年の徳山村の歴史を語る会発足当時からお世話になっている伊藤さんが2人の子どもを連れてきてくれた1978年に続いて、小原博樹は真史さんを連れて伊藤さんと一緒に毎年塚へ来てくれた。
まだ幼児だった真史さんを、僕たちはマー君と呼んでいた。
真史さんが覚えているという徳山村の印象は驚くほど鮮明で、川遊びや昆虫を見つけたり、石けんになる葉で遊ぶことを教えた先生は僕の教え子たちだった。
真史さんにとっての学校の先生のイメージは、父ではなく僕だったという。
僕が果たしてそれにふさわしい教員だったか、内心忸怩たるものがあるから、やはり気恥ずかしい。
小原博樹は40年以上にわたって、僕の最もよき理解者の1人であり、最も厳しい兄貴でもあった。
一緒に活動することは少なかったけれど、いつも小原博樹がいてくれると思うだけで心は熱くなれた。
小原博樹の訃報に接して、僕は400字詰め原稿用紙50枚に及ぶ手紙を真史さんに書いた。
未完のまま送ることになったその手紙の最後に、僕は次のように書いた。
これは訃報に接したその日に書いたものだ。
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昨夜、小原さんの夢を見た。
小原さんは暑い夏の見晴台遺跡の発掘現場に立っていた。
鋤簾に両手を添えて立っていた小原さんは、僕を見ていつものように「おっ!」と声をかけてくれた。
その目はやさしく、はにかむような、あの独特の表情で微笑んでいた。
僕も遠からず小原さんの所へ行くことになるだろう。
それはマー君よりずっと早いことに違いない。
でも、小原さんがそこにいてくれるのなら、僕はそこで小原さんにまた会えるという楽しみがあるのなら、怖いことはない。
今僕はネイチャーフォトを中心に写真の世界で四苦八苦している。
岐阜県大垣市金生山の四季を追いもとめて、2年間で195日撮影に入った。
そこで棲息するヒメボタル(金生山姫螢)の輝きを残すことを通して、白山信仰につながる虚空蔵菩薩信仰の寺院として、開発の中で今日まで守られてきた金生山の自然と歴史と伝統を記録している。
同時に山の考古学から見た伊吹山周辺の山岳信仰を金生山を通して考えたいという欲張った思いで通っている。
写真は真を写すと書く。
真は自然と歴史と文化に裏打ちされたものであるはずで、どのような真を受け止めるかは僕自身に問われている。
僕はファインダーを通して、自分を見つめたいと思っている。
僕の今を小原さんはどう見ているだろうか。
僕にできることは小原さんに叱られないよう、精一杯生きていきたい、ということだけだ。
いつか必ず再会するその時、小原さんは、僕をどう迎えてくれるだろうか。
「おお、いいんじゃない。がんばったんじゃない。」と言ってもらえるよう、精一杯生きていきたい、と思う。
小原さん、しばらくのお別れです。
またお会いできる日まで、日々生きていきます。
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真史さんが企画・担当することになった増山展。
きっと小原博樹が導いてくれたのだと思っている。
1周忌の先日、真史さんと一緒に墓参りをさせていただいた。
日差しの強い午後だった。
墓地近くの畑は、小原博樹が耕していたところだ。
そこには、鎌倉時代の山茶碗のかけらが散乱していた。
小原博樹は歴史と共に眠っている。
動き出した時間の中で、今、僕自身が問われている。
あの、厳しくも優しい小原博樹の眼差しを、今僕は思い出している。
(篠田通弘)
※※※※※※※※※ ●入館料割引券のご案内(20131004追記)● ※※※※※※※※※
いよいよ10月6日(日)から展覧会が始まります。
どうか一人でも多くの方が、増山さんが残した徳山村に会いに行っていただけますように。
僕は今から、心が熱くなるのを感じています。
入館料割引券をご希望の方は、管理人までご連絡ください。
大人800円→600円、高・大学生400円→300円
IZU PHOTO MUSEUM と他館共通券は、大人200円割引、小・中・高100円割引です。
(篠田通弘)
※※※※※※※※※ ●また、徳山村に会えた! 展覧会始まる(20131006追記)● ※※※※※※※※※
2013年10月6日展覧会初日、僕は新幹線三島駅にいた。
シャトルバスの中、偶然一緒になった小原真史さんと共にクレマチスの丘へ。
オープン初日、僕が第1号の入館者だった。
展示室に入ると、そこには徳山村があった。
ダムに水没してからは、付け替え道路から見下ろしても村の面影を探すことすらできなくなった徳山村。
その徳山村が、そこにはあった。
ともすると霞がかかったように、曇りがちな光景が、増山さんの写真が結節となってまるで霧が晴れたように目の前に現れた。
10万点の中から選ばれたわずか500点の写真だが、それはまぎれもない徳山村の姿だった。
廃村の経験は、僕の夢の中に何度も夢に出てきて、うなされる日々も続いた。
それ以来、僕の中の時計はずっととまったままだった。
今それが、はっきりと音を立てて動き出したことを感じている。
ぜひ多くの方に見ていただきたい。
もう会えないとあきられていた徳山村が、そこにある。
12月15日の講演会、どうかお出かけ下さい。
(篠田通弘)
【おまけ】
IZU PHOTO MUSEUM すぐ前の日本料理「テッセン」1階「テッセン茶屋」
お昼のお膳「花笑」をいただく。1日15食、土日祝日は20食の限定メニュー。
ボリュームたっぷりで、ご飯のおかわり自由。心地よい風が吹き抜けるテラスでいただくお膳に大満足。
食事のあとは、スイーツ「くりーむあんみつ」。和の甘さ漂う絶品、これはおいしい。
ただしおそろしく溶けるのが早い。のんびり写真など撮っていようものなら、あっという間にあんみつが水没状態。
今度いただくときはカメラを身構えて到着を待ち、着くやいなや手早く撮る。そして話などそっちのけで、無心にいただくこととしよう。
ごちそうさまでした。
※※※※※※※※※ ●「徳山村にまた出会えた」 毎日新聞(静岡版)に管理人のコメントが掲載● ※※※※※※※※※
(20131010追記)
展覧会初日、10月6日に小原真史さんと一緒に取材を受けた管理人のコメントが「毎日新聞(静岡)」10月8日付朝刊に掲載されています。
本紙は次の通りです。毎日JPでも一部を見ることができます。
※2013年10月8日『毎日新聞 静岡版』朝刊 クリックすると拡大画像が開きます。
IZU PHOTO MUSEUMでは、徳山村関係の書籍が販売されることになっています。
管理人の著書、編著を始め、これまで管理人が関わってきた徳山村の書籍等が一堂に会し、購入することができます。
これらの本は出版・取扱元の「マイタウン名古屋」でも購入することができます。
展覧会に来場の際は、ぜひ手にとってご覧下さい。
(篠田通弘)
※※※※※※※※※ ●映画「ふるさと」 待望のDVD化!● ※※※※※※※※※
(20131209追記)
2013年12月8日増山たづ子写真展に合わせて映画「ふるさと」の上映会が行われるため、IZU PHOTO MUSEUM へ出かけた。
僕の講演会は12月15日。
徳山村が廃村になってすでに30年近くが経とうとしている。
また、静岡県という徳山村とは離れた地で、増山さんの写真や徳山村、徳山ダムがどのように受け止められているか僕には分からず、講演を控えた僕はまだ漠然とした中にいる。
少しでもそれを感じたくて、2度目の増山展訪問となった。
深夜まで続いた星空のミニ撮影教室のおかげで、前夜の睡眠時間は2時間だけ。
そのおかげで往復の新幹線は、さながら寝台列車となった。
起きられるか心配したけれど、今回はTさんが一緒だから安心。
Tさんは僕が徳山ダム水没予定地内の埋蔵文化財発掘調査を担当していた時、まだ小学生だった。
お母さんに連れられて現場へやってきては遺物の水洗選別をおもしろそうにしていた彼女も、聞くともう29歳とか。
こちらも歳をとるはずだ。
増山さんの写真の中に自分のお母さんの写真を見つけて、自分に似ていると言った。
あの時は、寺屋敷遺跡の第2次遺構面(縄文時代)の検出を終えて遺構実測の最中だった。
増山さんがライターの楠山忠之さんと一緒に現場を訪ねてきた時の写真だ。
補助調査員だったお母さんは30歳代だったはずだから、確かに今のTさんの方が年齢的に近いとも言える。
今は遠くに暮らしていて会うこともなくなったけれど、自分の写真が展示されていること知らないんだろうなぁ。
ちなみにこの写真は増山たづ子『増山たづ子 徳山村写真全記録』(影書房、1997年)に収録されている。
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「ふるさと」はこれまでに何回見てきたのか数えられないけれど、見る度に新しい発見もある。
懐かしいというより、苦く、辛い、そして今につながる思いから抜け出すことのできない気持ちにとらわれる。
原作は徳山村戸入の平方浩介さんの『じいと山のコボたち』(童心社)。
あの時、ロケ中の皆さんは徳山村に宿泊していた。
そのため何度か皆さんと飲む機会もあった。
酒を酌み交わした長門裕之さんも、既に他界されている。
分校の授業シーンで、教師役の前田吟さんがリハーサルを終え本番直前に「先生、そのタオル貸して」といって僕が頭に巻いていたタオルを借りてそのまま本番となった。
「ええか、徳山村は1万年もの歴史をもっとるんやぞ。どうや、身の引き締まる思いじゃろう。」という前田吟さん演じる先生の台詞は、僕の意見を取り入れて書き直されたものだった。
復元した打製石斧を使った授業シーン。
これは実物の打製石斧を使用したものだったのだが、前田吟さんが肩にかけて二階の窓から外をのぞき込むシーンでは、落としはしないかとドキドキして見ていたのだった。
教室に掲示された「石器作りに挑戦してみよう」という模造紙2枚の掲示物は、僕が作って「徳山村の原始・古代展」で展示したものをそのまま使ったものだった。
さて肝心な映画だが、この日上映されたのは2回。そのうちの第1回目を鑑賞する。
観客は1回目は僕たちを入れて14人、2回目はもっと少なかったらしい。無料の鑑賞会なのでチケットの予約販売もなし。こんなものなのかなあ。
もう徳山村や徳山ダムは忘却の彼方なのだろうか、と思ってもみたり。
でも目を真っ赤にして会場を後にする若い女性の姿を見て、来て良かったと思う自分がいた。
映画の詳しい内容には立ち入らないが、次のお知らせだけ。
作品はこのたびDVD化され、12月6日に発売が始まった。
アマゾンでも取り扱われているので、ぜひ購入して欲しい。そして感想を聞かせて欲しい。
僕はVHSを購入して持っているけれど、DVDを買って帰ることにした。
12月15日の僕の講演会は午後2時半から。
先着順50名とあるけれど、どう考えても満室なんてならないだろうなぁ、何とか2ケタの参加者だったらいいか、と弱気な僕。
ぜひお出かけください。
(篠田通弘)
※※※※※※※※※ ●岐阜新聞に大牧冨士夫さんの紹介記事が掲載されました● ※※※※※※※※※
(20140220追記)
※2014年2月17日『岐阜新聞』朝刊 クリックすると拡大画像が開きます。
僕が徳山小学校塚分校教員として徳山村で暮らすようになったのは、1978年のことだった。
赴任の数日後に真っ先にお邪魔したのが、下開田(漆原)にお住まいの大牧冨士夫さんだった。
大牧さんは徳山中学校の教員を続けながら、中野重治の研究者としても知られていた。
僕が大牧さんと会うのはこれが初めてではなかった。
大牧さんは「長良川河口ぜきに反対する市民の会」が月刊で発行していた『川吠え』に「徳山ダム通信」を毎月書き続けていた。
そこにはダム問題で翻弄される村の姿が、村民の視点からリアルに発信されていて、僕は毎月必ず読んでいた。
また学生の頃、幻野の会が主催した「金芝河(キムジハ)らと連帯する会」に参加したときにもお目にかかっていた。
お世話になっていた近代文学者で岐阜大学教授だった永平和雄先生に徳山村へ行くと挨拶に行った時に、幻野の会の会員でもあった永平先生はぜひ大牧さんの所を訪ねるようにと言われたことを昨日のように思い出す。
それ以来、本当に数え切れないほど大牧さんを訪ねた。
いったい、何回ぐらい訪ねただろうかと思い出してみようとしてもわからない程、家族の皆さんにも可愛がってもらった。
いつも予告なしにふらっとやって来る僕に、嫌な顔1つせずにご飯を食べていきなさいと言ってくださった。
また、生意気な若造だった僕に対して時には諭すように話されたことも数多くあった。
今になれば、若輩の頃の自分が恥ずかしくもある。
今僕は、僕が初めて会った時の大牧さんの年齢をはるかに過ぎてしまった。
けれど若い人に対して、時にむきになることもある自分を思うと、大牧さんの大きさが今さらながら分かる。
2013年12月15日の僕の講演会でも大牧さんについては、紹介した。
根尾弥七さん、増山たづ子さんとともに、徳山村の歴史を語る会発足当時からの仲間。
僕が会名について「徳山村の歴史を語る会」がいいか「徳山村の歴史を学ぶ会」がいいだろうかと相談した時、即座に「徳山村の歴史を語る会」がいいと言ってくれたのも大牧さんだった。
「徳山村の自然と歴史と文化を語る集い」(徳山村ミニ学会)そして「揖斐谷の自然と歴史と文化を語る集い」(揖斐谷ミニ学会)でも、事務局の僕を支えてくれる大黒柱だった。
僕は徳山村で、もし出会わなかったら今の自分はなかったと断言できる人と何人も出会った。
それは僕にとってかけがえのない幸せなことなのだが、その中で一番最初に出会った人が大牧冨士夫さんだったことは、間違いないことだ。
僕の2013年12月15日の IZU PHOTO MUSEUM でざせていただいた講演を、最後の最後まで迷っていたと書いた。
辛く苦しい中に講演を閉じたとも書いた。
その思いは大牧さんの思いの深さに比べるべくもないけれど、これからの自分に課題であることをはっきりと思い知ったのだった。
大牧さんが元気でいてくれると思うだけで、僕は叱咤激励されている思いがする。
昔も、今も、そしてこれからもだろう。
新聞記事を拝見して、しばらくおたずねしていないけれど、お元気な様子に安堵。
それから聞き手として上がっている名前も懐かしかった。たぶん、僕の高校時代の同期で大学卒業後に岐阜新聞社に就職していた。
30年以上も前に、岐阜市内の古書展でばったり出会って以来だ。
大牧さんのお宅にまたうかがいたいな、と思った冬の朝だった。
昔みたいにいきなりたずねても、いいかなあ。
いい歳をして、僕のそろそろ大人にならんといかんのかな、なんて思ったりしているけれど、やっぱり僕は昔のままかもしれない。
(篠田通弘)
※※※※※※※※※ ●増山たづ子『すべて写真になる日まで』刊行されました!● ※※※※※※※※※
(20140514追記)
IZU PHOTO MUSEUM で7月27日まで開かれている増山たづ子写真展に関連して、上記の本が出版された。
増山展は10万点の中から、ほんの一部を展示しているにすぎないが、それでもその数に圧倒される。
この本には展示された写真の他に、増山さんの膨大な写真から選ばれた約750点が400ページに収録されている。
また、石垣りんさんの詩「1977年岐阜県揖斐郡徳山村戸入にて」も掲載。
僕が徳山村で暮らし始めた前の年に、石垣りんさんは戸入を訪ねている。
そしてその年に、増山さんは写真を撮り始めた。
増山さんの徳山村を残す営みは、村の記録を超えて圧倒的な力で、徳山村とは何だったのかを僕たちに問いかけてくる。
野部博子さんの「増山たづ子、昔話を語る」と小原真史さんの「ミナシマイの前に−増山たづ子ともう1つの徳山村=vも収録。
特に増山展を企画担当した研究員小原真史さんの増山たづ子論は出色。
増山さんが撮った写真とは何だったのか、そして写真とは何かを僕たちは考えさせられる。
ぜひ読んで欲しい。
2月、4度目の増山展を訪問したとき、同行者は「篠田さんの心はずっと徳山村にあるんですね。」とつぶやいた。
僕はその言葉に、胸を突かれた。
そして、今この本を手にして、心のざわめきを押さえることが出来ない僕がいる。
(篠田通弘)
●増山たづ子『すべて写真になる日まで』●
B5判変型、165×197mm 、オールカラー、400ページ。
発行 IZU PHOTO MUSEUM
税込み 3564円
NOHARA BOOKS で購入できます
●小原真史『写真は残る有り難し』(NHK 視点・論点)●
2014年2月14日に放送されました。
NHKアーカイブで見ることが出来ます。