2005年8月20日
滋賀県犬上郡多賀町敏満寺胡宮神社より
レリーフの等高線は20m。スケールの単位はm。
毎日のように雷雨となるこの日、どうやら西ならば天気は良さそうと、湖東の青龍山へ向かうことにした。滋賀県に入るとどんよりとした雲はどこかに消え去り、真夏の青空が広がっていた。多賀町敏満寺に入り、国道からそれて胡宮神社鳥居前の駐車スペースに車を置く(8時58分、写真左)。昨晩雨だったらしく、地面が濡れている。予想以上の暑さに早くも閉口。鳥居をくぐると右手に井戸跡を整備した時に掘り返したという焼化礫を積み上げた焼け石塚があった(写真右)。確かに焼けている。胡宮神社の地はかつて天台宗寺院だった敏満寺は、浅井長政、織田信長から相次いで攻撃を受け、焼失している。敏満寺は再興されることはなく、秀吉によってその地に胡宮神社が勧進されている。青龍山は胡宮神社の元宮である磐座を山頂にいただく神体山でもある。 | |
境内を少しだけ見学。胡宮神社から鳥居を振り返る(写真左)。紅葉の季節はきっとすばらしいことだろう。多賀町歴史民俗資料館(博物館が新たに設立されたため休館)横から「いわくらの小径」へ入る(9時05分、写真右)。 | |
神仏習合の名残をとどめる大日堂の前を過ぎると、強烈な丸太階段の急坂(9時12分、写真左)よく整備されてはいるが、草刈りされていないため草が覆い茂っている。しばらく急坂を登ると、巻き道に出た(9時18分、写真右)。もう汗だらけ。地面から立ち上る水蒸気と猛烈な暑さ。夏の低山歩きに少し後悔。山頂の磐座へ向かうために身を清めたという「御池」はここから右へ下りた所。ここで小型ブルドーザーでつけられた道へと変わった。たしかに歩きやすいが、仮にも神体山。磐座への道を整備するとでもいうのだろうか。 | |
これまで眺望は全く得られなかったが、巻き道から近江盆地がやっと顔を出した(写真左)。しばらくして鞍部に出た(9時25分、写真右)。右に折れると山頂だが、まずは左に折れて磐座へ。 | |
あいかわらずのブルドーザーの道を歩くと、元宮へ着いた。最後だけ道がきれいになっていた(9時27分、写真左)。写真右は磐座。ご神体だ。ご神体の前に腰を下ろして、ひたすら水を飲む。恐ろしい暑さである。こんな日は誰も登っては来ないのだろう。 | |
覚悟を決めて9時35分出発し、鞍部へ戻った(写真左)。鞍部からは稜線歩き。再び丸太階段の道(9時37分、写真右)。 | |
磐座と山頂の間の小ピークを巻いて進む遊歩道をはずれて、小ピークへ登る。ここからは湖東の盆地がよく見渡せた(9時40分、写真左)。かつて「水沼荘」として東大寺の庄園だった頃から「水沼池」として絵図に登場する大門池も見下ろせる(写真右)。目を北へ向けると、磐座をいただく北のピークがよくわかる(写真右)。 | |
北東方向には高室山とその奥に霊仙山が見えた。伊吹山はここからは見えないらしい。ハイキング道へ戻って、山頂へ向かう。最後の丸太階段の急登から磐座の北ピークを見る(9時48分、写真右)。 | |
草いっぱいの山頂に着いたのが9時48分だった(写真左)。日差しを遮り所のない山頂はただ暑いだけ。すこし行きすぎて木陰で休む。こんな時には冷たいビールといきたいものだが、今日はノンアルコールビールで我慢。あれほど暑くていやでたまらなかった今日の山歩きだが、木陰で腹ごしらえをしているとなかなかいい山じゃないか、と思えてしまうから不思議だ。少し休んで、湖東の平野を見下ろしてみた(写真右)。 | |
出発前にもう一度磐座を振り返る(写真左)。下りは「みはらしの小径」だが、草にびっしりと覆われているため道を見つけるのも少し苦労(10時13分、写真右)。10時14分出発。 | |
青龍山は西側が急傾斜で崩壊しやすいため、所々で根ごと木が倒れている。見晴らしだけは最高で、名神高速道路を真下に見ながら下山(10時16分、写真左)。草のため途中道を見失いそうになりながらも、10時32分林道へ下り立った(写真右)。 | |
林道の上には休憩舎が作られていたが、この暑さの中登って休もうという気にはならなかった。林道途中の木陰で休んでからしばらく歩くと、「彦根城」と書かれた巨大な看板があった。その目の前に高速道路が走っていた。 | |
高速道路をくぐって大門池に向かって炎天下を歩いて、ようやくのことで胡宮神社へ戻った(10時57分、写真右)。 | |
胡宮神社への、そしてかつての敏満寺への本来の参道は高速道路の下だった(11時00分)。高速道路の真下に仁王門跡の石柱と礎石が残っている。 | |
礎石はどれも焼化していて、敏満寺廃絶の時の戦火を物語っている(写真左)。仁王門跡を過ぎると胡宮神社の鳥居をくぐる。 | |
鳥居をくぐって参道を見上げる(写真左)。紅葉の時はきっときれいだろう。胡宮神社境内を見学。写真右は社務所庭園。江戸時代中期の姿をよくとどめている。社務所書院から見るように作られている。 | |
写真左は大日堂横の石仏群。このほかにも見所がたくさんあって、涼しくなった紅葉の頃にでももう一度ゆっくりと出直して来たいと思うのだった。写真右は大門池から青龍山を見た所。左のピークが磐座。右のピークが山頂。 | |
雷雨になったためひとまず胡宮神社を離れて、雨が去ってからもう一度訪れてみた。胡宮神社南の山麓には40あまりの削平地があり、敏満寺の堂宇や僧坊がつらなっていたことをうかがうことができる(写真左)。無数の石仏が散乱していた石仏谷は、史跡整備に向けての発掘調査が行われて、調査跡はおなじみのブルーシートで覆われていた。 | |
胡宮神社から名神高速道路を見下ろす。写真左が上りの多賀SA。敏満寺の広大な寺域はこのSAにまでも及んでいる。1988年からのSA整備に伴って実施された発掘調査では、敏満寺西端を防御するためかと思われる土塁で囲まれた曲輪と、その一角を占める櫓台、さらに幅10mにも及ぶ巨大な堀切が検出されている。その一部は整備されてSA内で見学できるようになっている。写真右は高速道路越しに大門池。水沼荘とかつての敏満寺に思いをさせながら、帰路についた。 ※最初、青龍山は胡宮神社とだけ関係あると思っていて、敏満寺とはイメージとしてつながらなかった。現地を訪れて初めてああそうだったんだ、と納得をした。敏満寺は奈良時代の創建とも伝えられるが、一説には貞観・元慶(859〜897年)の頃に慈證によるともいう。福寿院由来によると堂宇は48か所と伝えられる。敏満寺が歴史上名高いのは、東大寺再建と俊乗房重源に関連してである。治承4年(1180)東大寺は源平合戦のあおりを受けて炎上した。これを嘆いた高野聖の重源は翌5年に再建を誓ったがこの時すでに61歳の歳を重ねていた。重源は再建までの長命を得るために敏満寺に向かい、長命と再建を祈願したと伝えられている。養和元年(1181)重源に後白河法皇は造東大寺大勧進の宣旨を発し、高野聖たちによって勧進が始まる。よく知られた武蔵坊弁慶の勧進帳である。再建は政権を掌握した頼朝の支援もあって建久6年(1195)大仏殿が落慶し、この年の12月に頼朝が東大寺供養に臨んでいる。建仁3年(1203)には再建総供養が行われ、東大寺は再建されるに至った。焼失以来23年の歳月が流れていた。運慶・快慶が金剛力士像を東大寺南大門に造ったのもこの年である。ちなみに重源は再建から3年後の建永元年(1206)6月、86歳でこの世を去っている。敏満寺へ延命祈願をしてから25年目のことだった。 ※敏満寺は永禄5年(1562)、浅井長政から攻撃を受けた久徳氏に味方したことによって、長政が攻めている。このとき堂宇のほとんどが焼失したと伝えられている。さらに比叡山焼き討ちの翌元亀3年(1572)に織田信長の兵火にかかって焼け残った堂宇がことごとく焼かれ、寺領が没収されている。慶長年間には彦根城築城のため残った礎石はすべて運び去られたと伝えられる。これら戦火の中から、般若院と成就院が宝物と仏像等を移し、多賀大社不動院下として明治維新を迎えることとなり、敏満寺の宝物はすべて胡宮の福寿院へ戻され、今日に至っている。 ※近年、敏満寺が注目されるようになった理由は、次の2点にある。 まず第1は、名神高速道路上り多賀SA内で検出された遺構である。1988年から始まった発掘調査によって、城郭遺構が検出され「敏満寺城」とも称せられるようになった。検出された堀切は巨大なもので、明らかに戦国期のものである。この遺構は独立した城郭ではなく、軍事的な緊張の中で敏満寺が城砦化していったものと考えられている。問題はその時期であるが、屈曲する虎口の構造から浅井長政、織田信長の2回の軍事的緊張のうち、後者の段階のものであろうと想定されている。 第2は石仏谷の墓跡である。かねてより注目されていた石仏谷は、史跡整備のため2004年に発掘調査が実施され、膨大な墓跡群であることが明らかにされた。阿弥陀如来仏が多く見られ、蔵骨器等の出土遺物によると、貿易陶磁を主体とする12世紀に始まって、次第に常滑や瀬戸に変わっていく14世紀にピークとなり、16世紀に終焉を迎えている。このうち16世紀の遺物量はわずか1パーセントにすぎず、葬送儀礼に伴うものとしてよりも追善供養の可能性も指摘されている。この成果によって敏満寺遺跡墓谷跡は2005年に国指定史跡となることとなった。 敏満寺遺跡は寺域と城砦化した遺構、墓跡と集落をも含む広大な中世の姿をとどめる遺跡として注目されることとなった。私自身の不勉強によって今回はこれにとどめたい。秋にでも青龍山を再訪した際に、改めて考えてみたいと思う。 ※敏満寺遺跡については、多賀町教育委員会によって『敏満寺の謎を解く』(2003年)が出版されている。また、白石太一郎氏を委員長とする敏満寺石仏谷調査委員会による石仏谷墓跡の2004年度の発掘調査については、同町教委によって発掘調査報告書『敏満寺遺跡石仏谷墓跡』(2005年)が公刊されている。多賀SA内の発掘調査については、財団法人滋賀県文化財保護協会より『名神高速道路(多賀SA)改良事業に伴う発掘調査報告書−敏満寺遺跡−』(2004年)がある。詳細はこれらを参照していただきたい。 |