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今朝の朝食は弁当でお願いしてあったので、4時30頃に部屋で食べる。快晴で、今日は暑くなりそうだ。5時05分、頂上宿舎を出発。稜線に出て白馬岳頂上方面を見送る(写真左)。写真右は朝日ほ浴び始めた旭岳(5時09分)。 |
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主稜線から離山と丸山、その手前にテント場を見る(写真左)。丸山はもう朝日がいっぱいだ。その向こうの杓子岳、鑓ヶ岳も迫ってくる。今日はこれらの山々を越えていかねばならないのだ。丸山へさしかかると、ご来光を見終えた人が宿舎に戻ろうとしていた(5時10分、写真右)。昨年丸山から白馬岳のすぐ横から出る日の出を見たことは記憶に新しい。 |
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5時22分、丸山から朝日がまぶしい白馬岳を見る(写真左)。写真右は同じく丸山から杓子岳と鑓ヶ岳を見た所。稜線が朝日によって少しずつ照らされ始めている。 |
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丸山を下りようとしていたら、登山道に1羽のイワヒバリが岩の上に乗ったり、飛び移ったりしていた(写真左)。あまり逃げようとはしなかったが、岩の上に乗って朝日を見ているイワヒバリの目が光っていた。秋には低山に移動し、5月には高山へ戻って繁殖するという。杓子岳と鑓ヶ岳が少しずつ迫ってきた(5時34分、写真右)。杓子岳の上に何人もの人がいるのが見える。杓子岳でご来光という手もあるのかと思ったが、今日の行程を考えると巻き道を利用するのが無難。 |
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白馬岳を振り返って(5時47分、写真左)。信濃側に大きく崩れる非対称山稜の特徴がよくわかる。いよいよ杓子岳が眼前に迫ってきた(6時06分、写真右)。まだ朝早いはずなのに、もう汗びっしょり。先が思いやられそう。 |
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杓子岳の巻き道を歩いていると、コマクサが咲いているのに気づいた(写真左)。写真右は杓子岳の巻き道から見た白馬岳(右)と旭岳(左)。 |
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杓子岳の巻き道を過ぎて、鑓ヶ岳との鞍部に着いた(6時29分、写真左)。杓子沢上部の圏谷が手に取るようにわかる。ここから鑓ヶ岳への急登。珍しいことにこの斜面には石灰岩の露頭があり、白馬岳周辺の形成過程を物語っていて興味深い。急登はほんのひと登りで、ざらざらの登山道へと変わっていった(7時12分、写真右)。鑓ヶ岳山頂までに軽装備のたくさんの人とすれ違った。どうやら白馬岳からピストンしてきた人たちのようだ。白馬三山縦走は鑓温泉へ下りるか、不帰ノ險を越すかしかないと思っていたが、そういう方法もあることに気づいた。 |
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鑓ヶ岳山頂に到着したのが7時22分だった(写真左)。あまりの眺望の良さに大感激。たくさんの人がここで休んでいた。ここからしばらくは鑓ヶ岳山頂からの眺望の紹介。写真右は天狗越しに見た後立山連峰と剣岳・立山。晴れているとはいっても夏のことで、剣岳が霞んだ空気の上に浮かんでいるみたいだ。ところでかつて鑓ヶ岳山頂に大日如来座像が安置されたと伝えられている。立山連峰と違って、この白馬三山も含めた後立山連峰は宗教的な開山とは関係がないようだ。そんな中で現存しない伝承ではあっても、どのような経緯でここに置かれていたのか、興味は尽きない。八方尾根などでは大風から村を守るための風切地蔵が幕末に祀られているから、これらと関係するものだろうか。 |
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写真左は天狗越しに見た後立山連峰。唐松岳、五竜岳、鹿島槍ヶ岳の山並みと、その右に蓮華岳と針ノ木岳が見える。遠くに槍ヶ岳と穂高連峰を望むことができる。写真右は剣岳と立山。まだまだ雪が残っている。ところで天狗山荘がすぐ下に見える。3連休に猿倉から天狗山荘まで登って、不帰ノ險を越そうとして悪天候で中止。今度は大名登山方式で白馬岳に1泊、次に天狗山荘で1泊とも思ったが、これでは近すぎて不可。この分なら不帰ノ險を越してしまうことも、時間的には可能だ、と考えたりした。 |
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写真左は杓子岳と白馬岳、その右に小蓮華岳、反対側に旭岳を望む。山岳写真家の菊池哲男さんが、ほぼ同じ地点から夕日を浴びた山々を撮影している。白馬館のポスターに採用されていて菊池さんの代表作だが、下に雲海を従えて山々を夕日が照らすという光景はまず見られないものだ。もっとも同じ所に所に立っていたとしても雲泥の差だろうが。山頂には三等三角点があるが、国土地理院の「点の記」にあるように柱石は毀損していて、原位置をとどめていない(写真右)。所在地は長野県北安曇郡白馬村で、標高は2903.11mとなっている。なお、点名は「鎗ヶ岳」という表記が当てられている。 |
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少しばかり腹ごしらえをして、7時48分に山頂を出発。鑓温泉への分岐を目指して下る(写真左)。まもなく剣岳が稜線に隠れようとしている(写真右) |
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鑓ヶ岳山頂を振り返る(7時58分、写真左)。こちら側から見た鑓ヶ岳は、その名からは想像できない砂山のような印象だ。まもなく分岐(写真右)。鑓温泉方面へ下山する人もあれば、これから不帰ノ險を越して八方尾根を下りるという人もある。この時間なら行けてしまうのかもしれない。 |
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分岐付近で見つけたミヤマウイキョウ(深山茴香、写真左)。砂礫地に単独で咲く姿は、コマクサを連想させ、高山植物らしい雰囲気を持っている。写真右は大出原へ下山中に鑓ヶ岳を見上げた所(8時21分)。 |
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しばらく下ると、大出原に着いた。大出原はまさしく花いっぱいだった。同行者によると昨日大雪渓でグリーンパトロールの人が大出原にはこことは違う花が見られますよと、話してくれたという。写真左はコバイケイソウ(小梅尅吹jの群落。まだまだ新鮮だ。写真右はミヤマキンバイ(深山金梅)とハクサンコザクラ(白山小桜)の群落。コバイケイソウは昨年が開花の当たり年だったが、今年は昨年以上に多くて、2年連続の当たり年となっている。開花にはかなりのエネルギーを必要とするらしく、数年に一度しかこれだけの開花は見られないという。厳しかったこの冬が、敢えて無理をしての開花をさせているのだろうか。 |
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これから先の行程が気にはなるが、ここは三脚を据えてマクロレンズで撮影。写真左はハクサンコザクラのクローズアップ。写真右からどれほどの群落か分かっていただけるだろうか。大出原というとクルマユリの大群落のイメージがあるが、ここにはまた違った高山植物たちの姿があった。 |
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写真左はアオノツガザクラ(青栂桜)。写真右はツガザクラ(栂桜)。 |
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大出原から鑓ヶ岳を見上げる(8時45分、写真左)。北ア遭対協による看板越しに鑓ヶ岳を見上げる。鑓温泉を過ぎると、北ア遭対協の案内看板には鑓温泉−猿倉間の距離が5つの点で記されていて、現在位置の目安とすることができるようになっている。この看板を目にする度に、まだ歩かなければいけないのかと、大いにがっくりさせられることとなるのである。大出原を過ぎると硫黄の臭いが目立つようになった。鑓温泉手前の岩場を迎えるに当たって、一眼レフはザックにしまい込む。この先はコンパクトデジタルカメラによる画像。鑓温泉へ下りる岩場はすべりやすくてやっかいな所だった。鎖がよく整備されてはいるが、つるつるした岩肌が本当に滑りやすくて緊張する場面だ。写真右は9時49分。 |
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写真左は水の流れる岩場とその向こうの岩峰(9時51分)。鎖の付けられた岩場を振り返って見上げる(9時52分、写真右)。 |
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普通下るのは楽だというイメージがあるが、とんでもない。予想以上に緊張が強いられた後にようやく鑓温泉小屋が見えてきた(10時08分、写真左)。ところで鑓温泉へ至る登山道で、岩場からの滑落と同時に岩場を過ぎてから鑓温泉小屋手前での転倒と、右の雪渓への滑落が頻発しているという。何でもないような所だが、体が疲れていることを考えると何でもない石に躓いてしまうということなのだろう。10時18分、心底疲れて鑓温泉小屋に到着(写真右)。登山道は小屋と小屋の間を通っていて、この売店を目の前とすることになる。売店前でザックをおろして座り込む。汗で服はもとよりズボンまでびしょびしょ。売店でコーラを見つけて買う。水で冷やされてはいたが、水源が遠いため冷たいとはいえないが、コーラがあるだけでも贅沢というもの。何かを腹に入れたいが、口が受け付けない。缶ジュースが並んでいる中をよく見ると、フルーツ缶詰があった。箸をもらって食べたが、これはおいしかった。みんなここにこんなものがあるとは気づかないんじゃないかな。昨晩は70〜80人ぐらいの宿泊客、今日は予約だけで170人ということだった。今日は布団1枚に1人とはいかないらしい。後で下山してきた人が今晩泊まれるだろうかと聞いていたが、結局はあきらめて下山するらしかった。 |
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この汗まみれの服を見ると温泉に入る気にもならずに、11時少し前に出発することにした。写真右は鑓温泉小屋を振り返って。女性用の露天風呂は覆いがあったが、男性用は登山道に面していた。山の本でよく見る写真は上から見下ろしたものなので、下からこんなによく見えるとは思いもしなかった。風呂に入っている人に温度を聞いてみると、熱いといっていた。流れ出している水は当然のことながらお湯である。 |
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鑓温泉を過ぎて、4つの谷を渡る。最初の鑓沢には雪渓が残っていたが、クレバスが入っているため、一旦下に下がって、再び雪渓中央を登るようにベンガラで誘導してあった(11時27分、写真左)。雪渓から鑓沢を見上げる(11時42分、写真右)。 |
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いまにも石が落ちてきそうな落石沢を過ぎて、行く手の登山道を見ると、延々と山腹を巻いているのがわかる。登山道を見るだけでうんざりしてしまう(11時55分、写真左)。おまけに登山道は6月の大雨のおかげで随分荒れていた。本来の登山道が崩落したために高巻き道のように付け直されていたり、随所にロープが張られていたりして、そこかしこでアルバイトを強いられた。杓子沢で水を補給。冷たい水がおいしかった。それにしても暑い。風が全くないため、尋常でない暑さが応える。高巻き道から鑓温泉方面を振り返る(12時38分、写真右)。地形図では表現されない小さな登りや下りがたくさんあって、この道を登りで使うのは大変だ。でも団体さんが結構登ってくる。 |
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小日向のコル手前の大岩で登ってくる団体さんとすれ違った。27人の団体さんだったが、岩一つ越すのも大変そうだった。大岩を越して、ロープが下がっている急登を登り切った「雷岩」で大休止(13時時50分、写真左)。ここで休んでいると、北ア遭対協の常駐隊4人が白馬岳からやってきた。みんな全身汗だらけだった。今年の事故等はどうかと話していると、大出原で足が痛くて男性1人が動けなくなっていると無線が入ってきた。ここから戻るのかとびっくりしたが、天狗山荘から隊員が向かうとのやりとりだった。大変な仕事だ。小日向のコル手前でシナノナデシコが咲いていた(写真右)。 |
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雷岩から小日向のコルまでは一息だった。小日向のコルに着いたのが14時21分。写真左は小日向のコルの池糖に咲くワタスゲ(綿菅)。ここからジグザグに道を下ると、常駐隊に教えてもらった水場があった。そこで幾組もの登山者が大休止。もう登山道の荒れはないかと思ったら、ここから先も結構やっかいな道だった。猿倉台地まで山腹の道を歩いて、猿倉台地からは長走沢に沿ってまっすぐ延々と歩く。ほとんど水平のような道が、いい加減うんざりした頃にやや傾斜が急な下りとなると、やがて林道(砂防作業道)へ出た(16時55分、写真右)。お約束の万歳三唱で、ここからあっという間に猿倉荘へ下り立った。猿倉では山から下りてきた人、明日山に登る人が思い思いにビール、かき氷とくつろいでいた。こちらはかき氷。まさに夢見心地だった。
※2日目の行程は全身汗まみれになるほど暑くて、心底疲れた。大出原まではなんということもなく、鑓温泉までも岩場はあるもののさほどでもなかった。問題は鑓温泉から小日向のコル(双子岩)間だった。本文にも書いたように、6月の大雨で登山道が荒れ、至る所で登山道の路肩が崩れていた。大きく崩れた所は高巻き道へと迂回したりして、とてもガイドブック通りのタイムで歩けるとは思えなかった。その道を登りに使うグループといくつもすれ違ったが、鑓温泉泊まりだからがんばれるというものだろう。3連休に計画した天狗山荘までというのは、ちょっと無理な話だった。今回、2日目の行程が長い上に、一眼レフと一眼レフ用の三脚も欲張ったものだから荷の重さは大変で、これまでの山行で1、2を争うほどの汗だらけ、疲労困憊の体だった。アルペンロッジ岳都さんへ着いてから、ビール、夕食もそこそこに横になるほどだった。
※天候は2日間を通して申し分なかった。苦労して一眼レフを持って上がったかいがあったというもの。2日間で400カット程の撮影枚数となった。すべてRaw+Jpegで撮っているため、データ量はかなりのものとなったが、ストレージとして持参したエプソンのP2000が効果を発揮した。その一部は公開したので、おわかりいただけると思う。
※さて苦労して下った鑓温泉の道だが、南股川を上って鑓温泉を経由して主稜線へ出る道は、江戸時代には既に硫黄を採る道として使われていたらしい。明治9年に竹樋をもって鑓温泉から二股までの10Kmほどを引き湯しようという計画が実行されたが、その年の11月8日新雪雪崩によって小屋の内外にいた53人中23人が死亡するという遭難事故が起き、計画は中止されるに至った。その後、大正のはじめまで細野が持っていた鑓温泉の権利は昭和6年には白馬館が取得、白馬館が計画した現在の登山ルートが開かれた。しかし、昭和10年代まではこれまで通り南股川沿いに下る道が利用されていたという。鑓温泉は雪崩の常襲地であるため、現在でも白馬館により夏場だけ仮設の小屋が設けられている。北ア遭対協の常駐隊によると、鑓温泉〜小日向のコル間が崩れるのは毎年のことだという。
※本HPのうち、第1日目を書き終えたのが2005年8月10日だった。翌11日7時半頃に白馬大雪渓で土砂崩落事故が発生し、少なくとも2人が死傷したという報に接した。場所は葱平下部ということだったが、今回の登山ルート上での崩落事故は防ぎようがない。もし自分がその時その場にいたら確実に巻き込まれていたと思う。ご冥福をお祈りしたい。
翌12日になって新聞紙上で大雪渓上部から撮影された崩落状況の写真が公開された。新聞やネットに公開された写真から見る限りなので詳しいことはわからないが、写真に写っている植生から崩落箇所を判断して、前回の7月22日に登山した時の画像に書き加えてみた。現地で確認したわけではないので、あくまでも個人的な推定に過ぎない。登山道が再開されるまでには時間がかかるだろうが、本HPの第1日目に記述した通り、この地点が危険な箇所であることは変わりないと思うので、専門家による十分な検討が行われた後の再開を望みたいと思う。なお、千葉大学の苅谷愛彦氏(自然地理学、地形学、第四紀学)によって白馬大雪渓落石事故関係の資料が掲載されている。暫定的ではあるが検討資料も掲載されている(20050813)。
※白馬村から8月13日に「8月14日6時をもって大雪渓ルート再開」が発表された。白馬村観光局の公式HPには崩落現場付近の航空写真が公開され、今回の土砂流路と既存の登山道、付けなおした登山道が図示されている。これによると、土砂流出の道は2本あったことになる(ただし、航空写真自体は既存のものか?)。前掲の7月22日撮影の画像と今回図示された航空写真を照合して、崩落推定ルート画像を1枚追加した(20050814)。
※千葉大学苅谷愛彦氏他による、白馬岳・大雪渓葱平落石現地調査速報が公開された。8月23日時点での暫定的なものとのことであるが、現地調査に基づいて詳細な検討が加えられている。大雪渓を通過し、天狗菱を仰ぎ見たことのある者にとっては、実に驚くべきものである。ぜひご覧いただきたい(20050823)。  
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