MIHARUの山倶楽部管理人 篠田通弘
1 はじめに 2 白馬村の中世城郭の概要 3 佐野城平山城の踏査 4 佐野城平山城の概要 5 佐野城平山城の特徴 6 「村の城」論と佐野城平山城 7 佐野城平山城の築城の契機−まとめのかえて− 8 おわりに |
1 はじめに 長野県北安曇郡白馬村を初めて訪れたのは、1997年12月のことだった。白馬村と接する小谷村へスキーに出かけた時、雪の佐野坂を北へ下った。分水嶺を越えた所に現れた白馬盆地は、意外にも開けた盆地であった。筆者が暮らす揖斐谷は、標高は低いものの山深い、狭隘という言葉がふさわしい山地である。それと比べて、白馬盆地の広さには驚くばかりだった。毎年冬に訪れるだけの白馬村であったのが、2001年の夏から秋にかけて後立山連峰唐松岳への3回の登山に加え、唐松岳から五竜岳への縦走登山と、冬の訪問もあわせるとこの年には5回も訪れることとなった。 夏の訪問時に佐野坂を下ると、やはり広い盆地と開けた水田が印象的だった。佐野坂から流れ出る豊富な湧水は姫川源流を形成し、豊かな水量を伴って北流している。神城を潤した姫川は、北城に近づくと流路を東の山麓へと追いやられる。「みそら野」と呼ばれる、平川が形成した扇状地は、大量の土砂の堆積によって姫川の流路を東へと追いやっている。姫川の流路をふさぐこの扇状地は、佐野周辺の地下水位の高さをもたらしているだろうし、一帯の豊富な湧水点の形成とも関わっているはずである。このことが佐野など神城の歴史とどのように関わっているのだろうか。白馬村の歴史はいかなるものだったろうか。毎年、ウインタースポーツに登山にと、足繁く通うにつれて白馬村の歴史を知りたいという欲求は高まった。 |
2 白馬村の中世城郭の概要 筆者はこれまでいくつかの中世城郭と関わる機会を得てきた。1985年の徳山城の実測調査を振り出しに、いくつかの中世城郭の実測調査や踏査と縄張図の作成に当たった経緯がある。また低山を歩く機会が増えるにつれ、自ずから周知の遺跡以外の遺構にも遭遇することもあり、明らかにされていない地域の歴史に驚くこともあった。 そのような中で、白馬村に中世城郭が存在することを知ったのは何年も前のことになる。きっかけは三島正之「長野県・白馬村の中世城郭」(『中世城郭研究』第10号掲載、1996年)を知ったことである。精力的な分布調査と詳細な縄張図が掲載された同論文は同氏の労作であり、白馬村『白馬の歩み 社会環境編(上)』(2000年)においてもこの縄張図が掲載された結果、同書は村誌としては出色のものとなっている。 さて三島論文によると白馬村に存在する中世城郭として、佐野城、沢渡城、三日市場城、茨山城、飯田城、犬山城、一夜山城、塩島城の計8遺跡が記載され、また『白馬の歩み 社会環境編(上)』では計20遺跡もの存在が報告されている。これらの中世城郭のうち、筆者の最も関心を引いたのが三島論文で佐野城、『白馬の歩み 社会環境編(上)』で佐野城平(じょうびら)山城と記載された遺構である(こでは佐野城平山城と呼称する)。三島論文によると佐野城平山城は白馬盆地の最も南に位置する佐野集落の西の山上にあるとされている。佐野坂を南から下ってすぐ左手に見る「さのさかスキー場」の北西の山上となる。佐野城平山城が他の城郭と異なっているのは、その立地である。三島論文によると標高1200〜1300m付近に所在し、佐野集落との比高差は500m以上にも及び、際だって高い。一般的に山城の場合、比高差があればあるほど防御性に優れるが、軍事的機能が阻害され、同時に水や食料の補給が困難となる。背後を標高2814mの五竜岳から続き、遠見尾根の小遠見山(2009m)からの派生尾根がそびえる佐野城平山城の場合、里からの補給に頼る他はない。これほどまでに高ければ、背後の尾根から城内を一望され、敵が侵入するというおそれも少ないだろうが、高ければよいというものでもないはずである。いったい佐野城平山城とはどのような性格の中世城郭だろうか。 佐野城平山城を踏査する機会を待ち続けたが、2004年11月に思いもかけずその機会が訪れることとなった。 |
3 佐野城平山城の踏査 2004年は異常気象に始まり、異常気象に終わった希有な年だった。早い年には9月初旬に初冠雪が見られる白馬三山だが、筆者らが白馬岳に登った9月18日はまだ夏の名残すら感じられた。 例年なら村周辺の山々の山腹まで雪に覆われる11月6日、まだ雪は山の頂にとどまっているという情報を得て、佐野城平山の踏査を行うことにした。三島論文によると佐野城平山城は、さのさかスキー場北の鳴沢と屋代沢の間に突き出している尾根の中腹に存在する。和田野在住の横川和彦氏があらかじめ調べていただいたところによると、この尾根の末端一帯は地籍図によると「城平」と記載され、「ジョウダイラ」と読みが振られているという。三島論文では「ジョウビラ」との地名伝承が記されているが、このことだろう。ただし横川氏によると字城平は尾根中腹だけでなく、尾根末端一帯の広い地域を指すという。現地には登山道がないのはもちろん、山の所有者も足を踏み入れたことはない、とのことであった。 当日はさのさかスキー場から狭い林道に入った。鳴沢を渡って、車を樹木にこすりながらゆっくりと車を進め、わずかばかりのスペースを見つけて車を止めた。そこから林道を歩き、分岐に従って目的地の尾根突端までたどり着いた。ここから尾根に取り付こうとするものの、崖が立ちふさがり、ようやくのことでよじ登った。その後のことは、MIHARUの山歩きの中で報告した通りである。 城郭遺構は標高1150m付近から標高1215m付近にかけて存在した。三島論文によるとさらにこの上に堀切が1本存在し、最後の防御ラインを形成していることになっているが、単独登山であるため今回は踏査は自重した。略図作成には高度計とクリノメーターとレンジングを利用した。もとより三島氏によって詳細な縄張図が既に作成されているが、これを参照しつつ新たな図を起こした。方位は磁北でスケールはあくまでも目安にすぎないことをお断りする。また今回は大縮尺の地形図とのキャプションが間に合わなかったため、図のコンターは現地観察によって図示したものである。以下に作成した略図を基にして、観察の所見を述べたい。 |
4 佐野城平山城の概要(下図をクリックすると拡大します。100パーセントに拡大してご覧下さい。) 踏査では最高所に位置する最西端の堀切を除いてすべての遺構を見学した。 佐野城平山城は鳴沢と屋代沢の間に突き出た尾根の中腹に位置する。尾根は全般に急斜面であるが、ちょうど中腹の標高1170m付近に傾斜の変換点を有し、ややなだらかとなる。この傾斜の変換点を中心に遺構は存在する。またこの変換点は主稜線が2つの稜線へと分岐する点でもあり、遺構は2本の尾根上と稜線の間の谷地形に遺存する。 現存する遺構の最も下部は標高1150m、主郭と推定される遺構中心部分の標高はおよそ1190mm、踏査範囲の最も上部の堀切の標高は1215mである。すなわち、傾斜の変換点という比較的なだらかな地点を中心に造られているとはいえ、急傾斜の山地に設けられた本城の範囲は標高差65m以上に及ぶ。 本城は特異な遺構配置をなしている。分岐する2本の稜線上に曲輪を配置する関係上、主郭が明確ではない。比較的広い面積を有する方形の曲輪Nを主郭として把握するのが妥当だろうが、谷地形を挟んで南にはほぼ同レベルで小さな曲輪が置かれ、2本の稜線に主郭と他の曲輪が同列に配置されている。主郭を主要な曲輪の中で最も高い部分、すなわち最も防御性を高めた部分に配置するということがよく見られるが、これとは異なっているのは、地形の制約から来る特徴といえるだろう。また2本の尾根の結合点上部は痩せ尾根となるため、主郭の収容力を高めた結果このような配置になったともいえる。 大手筋はおそらくは今回登山に利用した尾根Bであろう。尾根Aはこの先で急に落ちている。尾根Bに登城路の痕跡はほとんど止めていないが、尾根が緩斜面になった部分にわずかながら道跡を認めることができる。道跡の痕跡が薄いのは、本城の存続期間と関係があるのだろう。しかし虎口はAの部分に設けられていて、尾根Aを大手筋とする方が適当であるようにも見える。尾根Aと尾根Bの間は崩壊していて、この間の様子をうかがうことは困難である。尾根Aを登ると、やや傾斜がゆるやかになった地点で、最初に曲輪@に到達する。曲輪@は不完全な削平地で、曲輪の肩も判然としない。現状ではここからその上の曲輪へ崖を登るしかない。曲輪@と虎口Aの間は竪堀状の痕跡Fがうかがえるが、崩壊した地形の関係もあってあまり明確ではない。 虎口Aから段差をへだてて通路が設けられているが、一段高く狭い方形の櫓台と見られる遺構が遺存する。主郭への通路は櫓台横を通って屈折しながら登っているが、この通路の南斜面には浅い畝状竪堀群Dが設けられている。この方面の地形がやや緩斜面となることから、主郭への通路の防御性を高めるための堅固な備えとなっている。現状では他の竪堀に比べて浅いが、明確な遺構群といえる。 一方尾根Bは稜線頂部ば幅広となるため、これに対応して帯状の曲輪を4つ平行に配置する。曲輪はいずれも十分に削平されていて、フラットになっている。そのうち、下部には曲輪縁辺を土塁で固めた曲輪Cがある。最も下部の曲輪に土塁を備えた曲輪を配置していないことを考えると、Fは竪堀の痕跡ではなく崩壊地形であり、虎口に至る通路は曲輪@とCの間に配置された曲輪から虎口Aへ至るのが本来の姿と考えた方が自然かもしれない。そう考えると曲輪Cに土塁を設けたのは、虎口Aと併せて敵の侵入へ備えたものと考えることができる。 土塁を設けた曲輪Cの北斜面にも、虎口Cの南ほどではないが、竪堀群が配置されている。竪堀群Eは短い竪堀を連続させて、自然地形を利用した大きな竪堀へ落とし込んでいる。南斜面に比べて急な北斜面にも堅い守りを施していることが注目される。 虎口Aから主郭へ至る道を登ると、虎口Gに至る。虎口Gの下にはやや広い曲輪を配置し、その北には一段高い櫓台と見られる方形の遺構が遺存する。櫓台の北には狭い曲輪を挟んで土塁を配置し、北斜面からの進入に備えている。ここまでが佐野城平山城の外郭ともいえる部分で、独立した機能を有している。 虎口Gから主郭に至る遺構群は主郭を中心とする主郭部とも呼ぶべき遺構群である。虎口Gは両側を土塁で押さえた平虎口で、急傾斜の進入路となっている。曲輪Iは主郭部の最前線に位置する曲輪で、縁辺を土塁で防御する。土塁は曲輪Cよりも高く、堅牢なものとなっている。また土塁を縁に置いた結果、曲輪Iは空堀のような状態を呈している。 ここより上部の曲輪群は3列に配置されている。まず2本の尾根筋に沿って連郭式に配置された曲輪群がある。これらはいずれもよく削平されている。もう1列の曲輪群は尾根間の谷地形に設けられた曲輪群で、主郭への通路を兼ねている。この曲輪群は一部を除いて削平は十分ではなく、傾斜している(曲輪L、M)。 南尾根(尾根A)の曲輪群は最上部の曲輪JからKにまで大小6つの曲輪を連ねている。いずれの曲輪もフラットで、曲輪Jを頂部とする。これらの曲輪群の南は地形が急斜面となっていることもあってか、竪堀群は配置されていない。また、曲輪の縁辺に土塁も設けられておらず、南斜面からの進入は考慮されていない。最上部の曲輪Jの上には土塁が設けられていて、土塁を隔てて堀切Qで背後の尾根から遮断されている。土塁の上は小規模ながら方形のフラットな頂部となっていて、あるいは小規模な櫓台の存在を考えてもいいかもしれない。 中央谷地形の曲輪群は、最上部の曲輪LからMまで5つ配置されているが、ほとんどの曲輪が削平不十分で傾斜したままとなっている。主郭への通路はこの谷地形部分の曲輪群を通っている。曲輪Lと堀切Qの間には高い土塁が設けられている。 北尾根(尾根B)の曲輪群は主郭に相当する曲輪Nを中心に3段設けられている。そのうち最下段の曲輪は北側に土塁を配置して北斜面からの進入に備えている。南尾根(尾根A)との違いが際だつところである。さて主郭へは曲輪Lから腰曲輪を経て入る。現状では特段の虎口の特徴は認められない。主郭内部は20m×10m程の方形を呈していて、よく削平されている。主郭内部に櫓台に相当する高まりは認められないが、谷地形の曲輪側(すなわち主郭への虎口側)には低いものの土塁を置いて、主郭への備えとしている。また、北斜面には切り崖の下に腰曲輪を配置しているが、急峻な自然地形を頼みとして、竪堀や土塁などは設けられていない。主郭と背後の堀切Qの間には土塁を置いているが、現状でも主郭内部との比高差は2mに及んでいる。 佐野城平山城の基本的な曲輪群は以上であり、背後は深い堀切Qで遮断するのみとなっている。堀切Qは幅約5m、曲輪端の土塁上との比高差は3mもあり、遺構の風化や堀切の埋没を考えると、本来の実効深度はさらに深くなるだろう。両端は竪堀状に落としているが、南側は急峻な地形にまかせて短く落とすのみとなっている。背後の尾根と完全に遮断する堅固な防御線である。なお山城によく見られる、背後の尾根と遮断する堀切の一部に土橋を設けて、搦手口や城から退去するルートを確保する手段はとられていない。あくまでも完全に遮断する手法がとられている。なお、堀切Qから30m程上にさらに一条の堀切Rが見られ、ここも同様に両端を竪堀状に落としているが、南側の竪堀はさほどの深さはない。堀切の東は曲輪ではなく、堀切の実効深度を確保するため若干地形に手を加えた程度のものである。堀切の幅は3m弱であるが、堀切Qほどの深度はない。しかし、ここではすでに2本の稜線は1本の痩せ尾根となっていて、これを遮断するには十分である。三島論文にはさらに上部に幅5mの堀切Sが存在するとなっているが、今回は単独登山のため見学を断念した。従って、三島論文に依って図示したものである。 以上が佐野城平山城の概要である。 |
5 佐野城平山城の特徴 佐野城平山城はいくつかの特徴を備えている。 まず第1に、その位置である。最も下部の曲輪でも山麓の集落との比高差が400m、主郭部分では比高差は450m、最上部の堀切では500mにも及ぶ。山城としては際だって高所に位置しているといえるだろう。山麓の居館に対応して詰めの城として山城が築かれることがあるが、このような山城には該当しないことは明らかである。 第2に山城としては削平が極めてよくされていることである。筆者がこれまで見学した岐阜県の西美濃を中心とする山城には、明確な堀切や竪堀を有するにも関わらず、曲輪内部に自然地形をそのまま残した、不完全な削平地を連ねただけの曲輪群からなるものが数多くある。それと比べて、際だった高所で作事の困難さにも関わらずフラットによく削平された曲輪群は、戦闘用としてだけの山城ではなく、多数の人員を収容することを前提にした作事であることを伺わせている。外郭部と主郭部分からなる構造も主郭部分を防御することに特化した構造といえる。 第3に主郭が際だたないことである。主郭部分は最も頂部に位置しているが、主郭への通路に面した縁に土塁を配置すること以外、他の曲輪との際だった違いを指摘することは困難である。南尾根(尾根A)と平行して置かれた配置も、地形の制約を受けているとはいえ特異である。 第4に虎口周辺に土塁や竪堀群を集中して、防御を高めていること、そして背後の尾根からの敵の侵入は想定しにくいにも関わらず、3本もの堀切を配置し、完全に遮断しようとしていることである。これらの堀切にはいずれも土橋は設けられていないようで、退路を確保しない構造となっている。この点、かつて筆者らが実測調査を行った岐阜県揖斐郡藤橋村(旧徳山村)所在の徳山城と堀切の構造が似ている。1993年から1995年にかけて筆者らが略測調査を行った岐阜県揖斐郡春日村所在の小島城では背後の堀切は完全に遮断する構造をとらず、中央に土橋を残していた。退路を確保する目的であったが、伝承では小島城は背後の山腹より攻め込まれて落城している。佐野城平山城の堀切の構造は、軍事作戦と連携する機能というよりは、城域を完全に遮断することのみを目的としているように感じられる。すなわち、文字通り立て籠もることだけを目的としているようにさえ思われるのである。 |
6 「村の城」論と佐野城平山城 我が国最大の徳山ダム建設事業のため1987年に廃村となった徳山村。その村に残る中世城郭、徳山城の実測調査を筆者ら徳山村の歴史を語る会が行ったのは1985年のことだった。徳山城は尾根の傾斜の変換点を利用して5つの曲輪を連ねた連郭式山城で、背後を1本の堀切で遮断する構造をとっている。中心は15m×25m程の方形の曲輪で連郭の中央に位置している。フラットによく削平された主郭は多数の人員の収容を考慮した結果のように思われた。 私たちが調査の過程で議論してきたことに、徳山城は果たして戦闘目的で造られたのだろうか、ということがあった。美濃と越前を結ぶ交通の要所であった徳山村は、南北朝の動乱期から戦国時代に至るまで度々軍事的緊張の中に置かれた。南北朝期の築城と伝承される徳山城も、現状は戦国時代の遺構として残っている。戦国期の越前朝倉氏と美濃の土岐氏、あるいはその後美濃を制した織田氏のいずれであっても、その強大な軍事力の狭間にあっては徳山村のような小村が動員できた軍事力はたかがしれている。とすると、これらのどちらかの進入に対して戦うという目的と考えるよりも、軍事的緊張の際に、村全体がここに逃げ込むという役割を果たすために造られたのではないか、というのが私たちの結論であった。領主や大名のみが城郭を造ったとするそれまでの定説に対して、徳山城を造った主体は徳山氏の指示を受けつつ、徳山在地の村落在住者が構築し、村落在住者の防御・避難の場として機能した可能性があると考えたのである。 その後1988年以降、「山小屋」論や「村の城」論が活発に議論され、「村の城」は「非権力者側によってつくられた臨時的・軍事的施設」という見解も提示されるに至った(山下孝司「小規模山城の史的位置−戦国時代の「村の城」を考える−」(『第12回全国城郭研究者セミナー「村の城を考える」』1995年)。中世城郭が造られる経緯や造る主体はさまざまあろうが、中世城郭の中には、軍事的機能を第1にしたものの他に、一時的な避難場所としての機能を有したものがあるとする視点は重要であろう。 さて、問題を佐野城平山城に戻そう。佐野城平山城について三島論文も同様の視点を念頭に置いた上で「この城の築かれた場所は戦火を逃れた人々が一時的に避難するには最適な立地」という指摘をしている。この指摘を基に検討してみたい。 佐野城平山城が軍事的要所を押さえ、戦闘本意に急造された山城ではなく、白馬盆地の中でも豊かな湧水点を持つ、佐野周辺の生産力を背景にして造られた城であることは間違いなさそうである。城は広大な面積を持つにも関わらず、度々修築を繰り返されたという痕跡は認められない。現存する遺構を見る限り、遺構群は統一された縄張りの下に築かれている。改修の痕跡も認められず、通常大手筋などに見られるような掘り窪められたような道跡も見られず、遺構は短期間のみ城が存続したことを物語っている。なおかつ曲輪群は削平が十分に施され、大人数の収容を前提としていることは明らかである。また、主郭を際だって堅牢に防御する構造をとらない佐野城平山城の構造は、築城主体が強固な大名や領主といったものではなかったということを物語るようでもあるが、この点は遺構から見た推測にすぎない。これらの点を総合すると、三島論文が指摘する問題は正鵠を得ているといえるだろう。ただし、統一された縄張りと大規模な土木作業量は自然発生的な作事ではなく、縄張りから築城に至るまで一貫した方針の下に整然と造られたことを物語っている。また佐野城平山城が作事途中で放棄された「作りかけの城」ではなく、完成された城郭であったと見られる。緊急の軍事的緊張の下に造られたとしてもある程度の時間を費やして造られ、完成された城であったことは確実である。しかし佐野城平山城は『信府統記』やそのほかの文献に名を残すことはなかった。もし長く存続し機能した城郭であれば文献に登場する機会もあったろう。文献や地域の伝承としても残らなかったことは、佐野城平山城が短期間に機能した城郭であったことを物語っているといえるだろう。 佐野城平山城は長く忘れ去られ、ただ「字城平」として地籍図にのみ今日まで残されてきたのだった。 |
7 佐野城平山城の築城の契機−まとめのかえて− 佐野城平山城については『信府統記』他の文献には記載はなく、築城者については不明である。しかし統一された縄張りの下に築城された佐野城平山城は、極度の軍事的緊張の下に築かれたと考えられるのである。白馬盆地を襲った軍事的緊張とはどのようなものがあったろうか。 白馬盆地は信濃・越後の国境付近に位置し、千国街道(塩の道)の要所にあたる。『吾妻鑑』の文治2年(1186)3月12日条には「六条院千国庄」とあり、千国庄がこの頃に成立していたことと千国庄が六条院領であったことがわかっている。鎌倉時代の建久元年(1190)12月「僧某下文」によると、「六条院領信乃国千国御庄内於他里飯守所」とあり、六条院領千国庄の於他里(小谷)と飯盛の政所に対して文書が発給されている所を見ると、千国庄に小谷と飯盛の2か所に政所が置かれていたことがわかる。中世の千国庄は安曇郡に勢力を伸ばしていた仁科氏が、支族の飯盛氏、沢渡氏を置いて支配していたとされている。 天文19年7月武田晴信は信濃守護職小笠原長時を退けて府中(松本)に進出し、仁科総領職盛能は晴信に出仕し、仁科氏の沢渡氏など支族の多くは宗家に従って武田氏に仕えている。しかし仁科氏一族の中には武田氏に従わず上杉方についた一族もあった。千国庄でも北側を支配した飯盛盛春は、地理的関係から上杉方に従った。弘治3年(1557)7月盛春は小谷村平倉山城で山県昌景率いる武田軍と戦い、城に籠もった盛春他城兵はことごとく討ち取られた。これが千国庄における軍事的衝突の初見である。この衝突後、白馬盆地は武田氏の支配下となり、比較的安定した時期を迎える。佐野城平山城の築城の第1の契機はこの時期であるが、平倉山城が小谷村の中でも北に位置していることから、この時期の可能性はまずないと考えてよい。この後、白馬盆地は武田氏の支配下として比較的安定した時期を過ごす。 武田氏は天正3年(1575)5月長篠合戦で織田・徳川軍に大敗を喫し、天正10年(1582)3月に武田氏は滅亡する。次いで6月本能寺の変により信長が自害すると、信長配下の武将たちは畿内へ引き上げを始め、信濃国は未曾有の混乱に陥った。これを見た上杉方は西片房家を総大将として小谷方面から侵入し、千国街道を一挙に南下して深志城(松本城)を攻撃して奪った。これに対して小笠原貞慶は徳川家康の後ろ盾のもとに、深志城の奪取に成功した。白馬盆地には南からは旧領を回復した小笠原貞慶の勢力が迫り、北からは上杉景勝の勢力が南下しようとしていた。このような中で、小谷村黒川城では天正11年(1583)3月に、美麻村千見城では同年10月に、上杉景勝方と小笠原貞慶方との軍事衝突が繰り返された。このような不安定な状態は、天正10年から18年にかけて続いた。この間、白馬盆地は上杉方と小笠原方の勢力の狭間として極度の軍事的緊張が続いた。白馬盆地は、基本的には小笠原氏の勢力下にあったと考えられているが、北からの圧力はこの間絶えず続くこととなった。現小谷村に小笠原氏の支配が及ぶようになったのは天正13年になってからのことであり、完全な支配権が確立するのは貞慶が豊臣秀吉の後ろ盾を得るようになった同年11月以降のことと考えられている。 天正18年の「豊臣秀吉書状」によると小笠原氏と上杉氏との小競り合いはまだ続いていることがうかがえ、両氏が秀吉の命に従うに至って集結したのである(白馬村『白馬の歩み 社会環境編(上)』)。ちなみに小笠原氏は天正18年に下総古河へ移封されている。 さて、この天正10年から18年にかけての軍事的緊張下が佐野城平山城が造られたと考えられる第2の契機であり、先の契機に比べてその可能性は極めて高いと考えられる。軍事的緊張下において、佐野城平山城は築かれたのだろう。築かれた位置が白馬盆地でも最も南に近く、この北に上杉方に備えるように軍事的色彩の強い山城がいくつも配置されたことは示唆的である。「戦火を逃れた人々が一時的に避難する」(三島論文)にしても、その対象が佐野一帯だけではなかった可能性も考えられる。佐野一帯の村落だけを対象とするには、あまりにもその規模は大きいといわざるを得ないかもしれないのである。 なお白馬盆地にはここで取り上げた城郭以外にも、この時期に急造あるいは改修を施したと考えられる城郭が報告されている。この間の軍事的緊張がいかに極度のものであったかを知ることができるが、ここでは取り上げない。 |
8 おわりに 今回の踏査では、佐野城平山城の水の手の確認はできなかった。再度踏査を行う機会があれば、略図の修正も行いたいと考える。また今回、神城飯田の飯田秋葉山城も併せて見学した。痩せ尾根に深い4本の堀切を施し、堅固な城となっているが、堀切間の曲輪は削平があまり十分でなく、臨時の軍事的な山城として急造されたといった感じを受けた。曲輪の収容力は多くはない。詳細については改めて踏査した上で、機会を得て考えたい。また、白馬村『白馬の歩み 社会環境編(上)』(2000年)の中で、「日陰大左右山城跡」として報告されている日陰大左右山も踏査を試みたが、指摘された地点に少なくとも人為的な遺構は認めることはできなかった。 踏査に当たって、白馬村和田野在住の横川和彦氏には、地籍図による字名の確認と、地元の地名伝承についてさまざまなご教示をいただいた。また、村誌『白馬村のあゆみ』の実見についても格別なご配慮をいただいた。横川氏のご協力がなければ、踏査はかなわなかった。ここに厚く謝意を表する次第である(20050103校了)。 |