2004年9月12日
滋賀県長浜市茶臼山古墳より
レリーフの等高線は20m。スケールの単位はm。
夏の暑さがいつまでたっても続いている。こんな時に低山は暑さに追い打ちをかけるようなものだが、朝起きてみると天気予報がはずれてつかの間の晴れ間となっていた。こんな日は遠出もできず、かねてより気になっていた滋賀県長浜市の横山を歩くことにした。以前茶臼山古墳を見学に来た時、「横山縦走路」と看板が出ていて、ここから縦走できるのかと思った山である。9時41分、茶臼山古墳直下の空き地に駐車。以前は見られなかった、立派な看板も出ている(写真左)。ここから墳丘の裾野を巻くように前方後円墳のくびれ部に道は付いていて、そこから後円部に登る(9時45分、写真右)。県指定史跡の茶臼山古墳はかつては全長92mとされていたが、1990年に行われた実測調査によって、全長約100mであることが確認された。主軸は前方部に向かってN142度E。後円部墳頂はフラットで広く平坦になっている。また、後円部と前方部の墳頂の比高は±0mとなっているが、これは昭和初期の軍事演習の際に後円部が削平されたためであることがわかっている。葺石が認められ、かつて円筒埴輪の存在も確認されている。茶臼山古墳出土と伝承される遺物に須恵器の坏身、蓋、高坏、はそう、などが知られていて、須恵器の年代は、5世紀末を示している。しかし、これらは山麓の前方後円墳である垣籠(かいごめ)古墳出土のものと混同している可能性もあり、年代の決め手を欠く。垣籠古墳との立地の差異が築造年代を反映するものと仮定すると、4世紀末から5世紀初めの年代が考えられるだろう。 | |
茶臼山古墳の見学を終えて、くびれ部から登山道へ下りる。縦走路を示す指導標に従って、南へ。茶臼山古墳前方部と丘陵を区画する空堀を経て、急な斜面を登る。やがて標高182mの龍ヶ鼻と呼ばれるピークに出る(9時53分、写真右)。元亀元年(1570)6月21日、小谷城に浅井長政を攻めた織田信長は、わずか1日で軍を返して6月24日ここ龍ヶ鼻に陣を敷いた。ここから峰伝いに南に位置する浅井方の出城であった横山城を攻める作戦をとった。これにつられるように浅井軍は小谷城を出て、6月28日姉川の合戦となったことはよく知られる。龍ヶ鼻には急ごしらえと思われる城郭遺構があるが、182mのピークを中心にして腰曲輪を配する簡略のものである。しかもこれらは広義には横山古墳群とも、狭義には龍ヶ鼻古墳群とも呼ばれる古墳群上に位置している。写真右は古墳群の盟主、前方後方墳の龍ヶ鼻1号墳の前方部から後方部を見た所。全長44mで、主軸をN105度Wに振っている。後方部と前方部の墳頂の比高差は−2mで、陣構築の際の変形を考慮しても古式の形態をとどめている。 | |
写真左は後方部墳頂の様子。最近試掘調査が実施されたらしく、調査区設定杭とトレンチ跡が見られる。正式な調査結果はまだ公表されていないらしい。調査結果を待たねばならないが、先の茶臼山古墳と、もう一つここから西に延びた尾根上の前方後円墳の山ヶ鼻古墳の存在を考えると、それらよりに先行すると考えられる古式古墳群である。場合によっては、発生期古墳群にまで遡る可能性をも考え得ると思う。古墳群を見学しながら、さらに南に登山道を歩くと、鉄塔のために刈り払われた地点に出た(10時11分、写真右)。 | |
写真左は鉄塔から縦走路を横山方面に見たところ。時折暑い日差しが降り注ぐ中、さらに進むと天神岩の称する大石が目に入る(10時16分、写真右)。建久年間にご神体が飛来したと伝承されていて、麓に天神神社がある。 | |
尾根伝いにアップダウンを繰り返すと、古墳の可能性があるいくつものピークや尾根上にトレンチの跡が見られた(10時21分、写真左)。やはり埋め戻しは不完全で、土が落ち込んでいる。10時28分、尾根突端に築かれた犬飼古墳(写真右)。内部主体は横穴式石室で、石室は崩壊している。ここにも石室前庭部にトレンチを入れた跡が見られた。 | |
犬飼古墳から急傾斜を鉄塔巡視道に頼って下りると、深い掘り割り道が設けられていた。堀切状に深いものだが、横山丘陵をはさんだ東西集落の交通路として使われていたらしく、祠や石仏が祀られている(10時30分、写真左)。堀底から指導標に従って急傾斜を登って再び続く縦走路を歩くと、尾根上から伊吹山を望むことができる(11時08分、写真右)。縦走路はこの季節歩く人が少ないらしく、先日の台風で倒れたのだろう、倒木が所々遮っていた。 | |
さらにアップダウンを繰り返すと11時14分に横山城の北端を示す、堀切に出た。両端は竪堀状に落としている。堀切そのものの深さは埋没していることを考慮しても、さほどではない。それよりも、ここから南に急峻な崖を登った所に設けられた曲輪との実効深度が非常に深い構造となっていることが注意される。尾根上に2段にわたって設けられた曲輪を経て、さらに急峻な傾斜を登ると、主郭に出た(11時19分、写真右)。草に覆われてはいるが、ベンチや休憩テーブルまで設けられた公園である。主郭は最高点に設けられたほぼ円形の削平地で、周囲に土塁等は認められない。かなり暑くて、長袖の上着は汗だらけ。脱いで干しておいたらすぐ乾いてしまった。低山ならではのお昼寝と、テーブルに横になる。 | |
寝ていると、石田町方面からランニング姿で走って登ってきた人がいた。日課のようにランニング登山をしているという。水も、何も持っておられなかったが、身軽な分軽くていいとのこと。この暑さの中、信じられない姿を見た思い。写真左は山頂から見た伊吹山。もうススキが出ていた。写真右は山頂の三等三角点で点名は「堀部」。標高311.85m、国土地理院「点の記」によると所在地は滋賀県長浜市堀部町1番地とある。そういえば、山頂の横山城の標柱にここが堀部町1番地であることが刻まれていた。 | |
下山前に一通り城郭域を歩いておこうと、山頂の主郭から南の米原方面へと続く縦走路に従って、急峻な崖の階段を下りる。鞍部に設けられたいくつかの曲輪を通って、登り返すと、今度は土塁で囲まれた食い違い虎口を経て、長方形の曲輪に出た。ここには掘り抜きの井戸も現存する(写真左)。観音寺の鐘突堂がある。この曲輪は長辺に土塁を配する方形の曲輪で、居住空間としての役割を持った曲輪であることがわかる。先の主郭を北郭とすると南郭と称しても良いような曲輪である。西側に配した腰曲輪には竪堀と同時に竪土塁を2か所に設けていて、山腹の横への移動を妨げている。ここで今日2人目の登山者と出会う。今度はランニング姿ではなく、ちゃんとした(?)登山姿で、観音寺方面から登ってきたという。話し好きの人で、このあたりの山系の特徴の話をいろいろ聞いているうちに、ついつい時間を過ごしてしまった。こちらから話を切って、ようやく腰を上げることにする。写真右は横山城跡の最南端の堀切(13時45分)。しばらく縦走路に従って南へ歩いてみるが、これより南には遺構を認めることはできなかった。 | |
写真左は南郭西側の腰曲輪と竪土塁。近在の城郭遺構ではあまり見たことがない。一度北郭に戻って、今度はハイキング道に従って西へ伸びる尾根を下山する。やや不完全な整形の長大な曲輪の先には、二重堀切が設けられていた(14時06分、写真右)。二重堀切は昨年、福井県の杣山を歩いた時にお目に掛かっているが、このあたりではめずらしいと思う。 | |
二重堀切の先にはさらに曲輪が設けられていて、曲輪先端は土塁でふさがれている。虎口は平虎口のように見えるが、ここを右に回り込んで付けられていると考えるべきだろう(14時09分、写真左)。土塁の先にもいくつもの削平地があるが、明確な遺構は土塁の先の曲輪で終わっている。ここからはハイキング道に従って、長い尾根を石田町へと下りる。14時26分、林道に出る(写真右)。 | |
このまま石田公園まで下山しようかと思ったから、せっかくだから山麓に付けられた林道を通って戻ることにした(写真左)。しかしその長いこと、長いこと。曲がりくねっているだけに当然で、いやというほど歩いて、ようやく下山。今度来る時は、たぶん林道は使わないだろう。茶臼山古墳麓に戻ったのは15時26分だった(写真右)。 ※茶臼山古墳に始まって、古墳と中世城郭と自然を訪ねるハイキング道。いずれも非常に興味深いものだった。横山城は信長や秀吉を取り上げたドラマや映画には必ず取り上げられる、歴史上名高い城だが、実際歩いたのは今度が初めて。主郭(北郭)を中心にしてY字形に遺構は広がっているが、@尾根を削平しただけの曲輪と、A要部に土塁を採用した曲輪、の2つがあることが注意される。@については北郭周辺と北郭から北に延びる尾根に認められ、Aについては北郭から一度鞍部に下って、さらに南郭へと登り返す部分から認められる。また、北郭から西へ伸びた曲輪群の先端にも採用されている。横山城はかつて浅井氏本城である小谷城の支城であった。信長が浅井軍から奪った後に秀吉が城番を勤めて、3年にわたって浅井軍の猛攻に耐えてここを守った歴史上の事実と、現存する遺構の特徴比べると興味深いことがわかる。すなわち、当初の横山城は北郭を中心にして北と南の二方向の曲輪群を中心とするものであったらしく、土塁はそれほど多用されていなかったと考えられること。だからこそ、小谷城方面へと続く尾根には、一条の堀切のみで区画していることは、この方面からの敵をさほど想定していなかったと見られること。これを奪った信長は、秀吉に守らせる中で南郭群を増築、改修して、常時居住の場とし、北郭からの虎口は特に厳重な土塁を配した食い違い虎口としたと見られること。また腰曲輪の竪土塁も同時期と思われること。さらに、西の石田町方面の尾根は、本来は琵琶湖方面に設けられた二重堀切で終わっていた所を、さらにその時に土塁付きの曲輪を増設して、兵力の増員に対応したと考えられること。以上が主に注意される点である。横山城は典型的な山城で、実戦本意の戦略的な城として築かれ、その役割を最後まで全うした。信長と秀吉の近江を押さえる戦略的拠点として機能し続けたが、秀吉は賤ヶ岳の合戦に先立っても、横山城をリサイクルしようとした動向が知られている。あるいは、今日観察した遺構の中には、第3の時期である賤ヶ岳合戦前のものが含まれるかもしれない。秋になって、下草が枯れた頃にもう一度訪れてみたいと思える低山の一つだった。 |