2004年5月22日
滋賀県湖北町山本より
レリーフの等高線は20m。スケールの単位はm。 |
午前中の中尾山に続いて、午後は近江湖北の山本山を歩くことにした。午前中は日が差していたが、午後になって曇り空と変わっていたが、雨はしばらくは降ってこないだろう。山本山は中尾山と同様に、中世城郭の山でもある。標高は低いが、北に延びる尾根を従えたその山容は、近江盆地でも一際目を引く。北に延びた丘陵には、発生期の古墳である古保利古墳群が知られている。12時45分、登山口の山本から歩き始める(写真左)。車は登山口横の小学校の駐車場に駐車させていただく。登山口の神社から、やや登った所の寺院まで石段が設けられている。ここでまた登山口の標識がある(12時50分、写真右)。 | |
しばらく写真左のような石段が続くが、草に覆われている所もある。それにしてもここも静かで、誰とも出会わない。低山だけに、人また人かと思ったが、すっきりしない天候のせいかもしれない。しばらくして石段が突然消え、写真右のような、どう見ても重機で無理矢理付けた道に変わった(13時00分)。しかも無理矢理付けただけに、傾斜がおそろしく急な所もある。どうしてこうまでして「遊歩道」を付けねばならなかったのだろう。 | |
急登をひとしきり登ると、「三の丸」と看板が立てられた所に至る。明らかに土塁が巡る曲輪である。驚いたことに、重機で無理矢理付けた「遊歩道」は土塁を破壊して、山頂に向かって一直線にのびている。自然の破壊であると共に、埋蔵文化財を破壊してまで重機で付けねばならなかった「遊歩道」とは一体何なのか。さらに登ると、13時14分「二の丸」と看板が掲げられている山頂に到着する(写真左)。ここは削平が不十分な曲輪であるが、かつて公園として「整備」されたようで、人為的な破壊が著しいと考えた方がよい。ベンチが置かれていて、賤ヶ岳から縦走してきたという登山者が一人休んでいた。写真右はベンチから見下ろした琵琶湖。葛籠尾崎が見える。 | |
休憩の前に、ともかく山本山城跡を見学するとしよう。写真左は、ベンチから北に少し歩いた所にある主郭。主郭は長方形を呈して、周囲に土塁が巡っている。南北と東の3か所に虎口が開く。主郭の北側は、土塁直下に堀切が設けられている(写真右)。土塁と併せて実効深度は十分に深い。 | |
さらに尾根伝いに北を歩いてみると、尾根上にいくつもの曲輪が連続して設けられ、それぞれの曲輪間は大きく3か所に設けられた二重堀切で寸断されている。堀切の両端は竪堀として斜面に掘り落とされているものもあり、また堀切中央には狭い土橋も設けられている(写真左)。曲輪は基本的には土塁で囲まれているが、片側にしか土塁を持たない曲輪は、琵琶湖側に土塁を設けていて、湖岸からの防御性を高めている。かつては山本山西側と南側直下にまで湖面が広がっていたと考えられるため、天然の要害に加えて万全の防御を図っている。最北端の遺構を見学した後、主郭に戻って二等三角点を撮影(写真右)。国土地理院の「点の記」によると、点名は「山本山」で、所在地は滋賀県東浅井郡湖北町大字山本3669番地となっている。 | |
ベンチに戻り、琵琶湖を眺めながら小休止。あいかわらず虫がいっぱい飛んでいる。ここでも蚊取り線香のお世話になった。休憩後14時01分、下山開始。写真左は下山路を示す標識。写真右は重機で自然と遺跡を破壊しながら付けられた、「遊歩道」。14時20分、登山口に下り立った。 ※山本山城は、創建は源頼義の三男であった新羅三郎義光ゆかりの山本義経の頃という。山本義経は以仁王の平氏打倒の令旨を受けて挙兵。これに対して平知盛は山本山山麓の義経居館を焼打ちし、義経も寿永3年(1184)以来消息を絶っている。伝承通りこの時期の創建であるとすれば、非常に古い創建である。その後、山本山城は阿閉(あつじ)氏の居城となったが、その後山本山城は城主を変え、浅井氏の小谷城の支城となった。浅井長政の時、再び阿閉氏がこの城に配され、元亀3年(1572)の織田軍の総攻撃に耐えながらも、翌年降伏し開城している。 ※さて、現存する遺構であるが、ざっと見学した限りは古い段階の遺構はほとんど存在していない。基本的に土塁を巡らせた曲輪と堀切、竪堀からなる一貫した構造は、虎口形状が平虎口であることからも、織豊系城郭以前の所産であることを物語っている。おそらくは、浅井氏が織田氏に姉川の合戦で敗北を喫し、勅命によって朝倉義景と浅井長政が織田信長と和睦した直後、再度の戦いを想定して浅井氏の指示で山本山城に大改修が行われた可能性が高い。琵琶湖の内水面を押さえる戦略上の要所として、山本山城が幾多の戦火にまみれたことをしのぶことができる。 ※ところで山本山を歩いて気が付いたことがある。重機で無理矢理付けた「遊歩道」は、自然を破壊するばかりでなく、遺跡をも破壊していることにはすでに触れた。しかし、もう一つ述べておかねばならせないことがある。登山時にも気づいたが、「遊歩道」に無数のマウンテンバイクのタイヤ痕が見られたことである。タイヤ痕は山頂からさらに、賤ヶ岳方面に伸びている。ここには曲輪から堀切への急斜面に、丸太階段が設けられている(これも遺跡を破壊して設けられているのだが)。問題は、マウンテンバイクが丸太階段を通れないため、その横から曲輪の肩を削って、ブレーキをかけながら下りている跡が無数に見られることである。人が歩くのとは違い、遺構の痛みは残念ながら甚だしい。しかも次から次へとバイクはやってくるようで、その傷跡は痛々しい。HPを巡回してみると、やはりこのルートはマウンテンバイクの格好のコースとなっているようで、このままでは、これからも破壊は少しずつ、そして確実に拡大していくことだろう。いろいろな方面からの議論を期待したい。山本山の自然と、歴史を秘めた山本山城の遺構が、未来にまで保存されていくことを願いたい。 ※かつて、本当に昔のことだが、環境破壊は一部の大企業だけがなせる暴挙だと思っていた、若い頃の自分がいた。その自分のような、普通に暮らしている我々の生活スタイルが、少しずつ、しかし確実に環境を汚染しているとは思いもしなかった時代があった。山本山を歩いて、2つの破壊の姿から考えさせられるのだった。 |