金華山(330m)
2004年2月21日
岐阜市達目洞より


レリーフの等高線は20m。

天気は下り坂のようだが、曇っているような春霞がかかったこの日。久しぶりに朝寝をして、思い立って西山コースから金華山を歩くことにした。達目洞ではヒメコウホネの引っ越し作業などの自然保護活動が行われていた。空き地には車が何台が駐車してあったが、隣家に駐車のお願いをし、あわせて登山口を確かめる。鵜飼大橋につながる環状線のトンネル工事が行われていて、あたりに昔の面影はない。登山口は11時35分。環状線のトンネル工事のすぐ横から入る(写真右)。
ざらざらと滑りやすい登山道は、ここから上る人が少ないせいかそれほど荒れた感じはない。左手で工事の重機がさかんに音を立てている。11時44分、西山から金華山へと延びる尾根に着く(写真右)。ここを右に折れると西山、左へ折れると金華山。
長良川を右手に樹間から見下ろしながら、静かな尾根歩き。尾根はところどころで岩盤が露出するが、比較的幅が広く、やせ尾根といった感じではない(写真左)。ここを通る登山者は少ないらしく、荒れていない。静かでなんだかとっても徳をしたような気になる。しばらくすると岩戸からの登山道との合流点に着く(11時58分、写真右)。ここではじめて登山者と出会う。岩戸から登ってこられる人は多くはないものの何人かおられた。
標高217メートルのピークをすぎると岩稜歩きとなり、2か所に梯子がかかっている(写真左)。岩稜を登ると眼下に長良川と鵜飼い大橋が見下ろせる(写真右)。中央のピークは標高217mのピーク。岩場を過ぎて、ジグザグに急な登山道を上ると、それまでほぼ西へ一直線に延びていた尾根が南西に傾きを変えた平坦な尾根へと変わる。
平坦な尾根を下りると、ここで初めて岐阜城の遺構に出会う。写真左が先端の曲輪前面に設けられた石垣。写真右は南へ掘り落とされた竪堀。埋没してはいることを差し引いたとしても、戦国期の大規模な竪堀とは思えないほど小規模なものだ。ここを過ぎたあたりから、尾根の南側に小規模な曲輪が何か所か認められ、狭義の岐阜城に関する城郭遺構としては、数少ない良好な遺存状態を見せている。
登山道は瞑想の小径と合流し、ここからは山頂までは一息(写真左)。瞑想の小径はかつての水の手道になる。12時25分、山頂着。山頂からアップダウンを繰り返す西山の尾根を見下ろす(写真右)。登山口からちょうど50分かかったことになる。山頂はたくさんのハイカーや観光客でにぎわっていた。
帰路は遺構を見学しながら、のんびりと下ることとする。写真左は最先端の防御施設である石垣で固められた曲輪を東側の尾根から見た所。写真の左側にあたる尾根南斜面には明瞭な竪堀が掘り落とされているが、北側は急峻な自然地形に依存し、不明瞭な竪堀が掘られているに過ぎない。中央の登山道は土橋の上を通るはずだが、これもあまり明瞭ではない。写真右は標高217メートルピークから岐阜城を見上げた所。
さてこのまま下りるのも物足りないので、一足のばして西山を訪れた。岩戸との合流点から西では行きも帰りも誰一人出会わなかったので、ここも誰もいないだろうと思って登ってみると、一人の男性が昼食中。聞くと今年になってからもう7回目だそうだ。西山山頂からみた金華山は秀美だ(写真左)。14時05分、登山口に下山。振り返って、起伏の多い西山尾根線から登山口を見上げた(写真右)。
※i実は西山コースを訪れるのは今回が初めて。登山口がわかりにくいのが不安だったが、変化に富んだ充実した登山道で、金華山へのバリエーションルートとしてお勧めできる。ところで、金華山は公園化と新しい登山道の設置による破壊が著しく、城郭遺構が良好な状態で遺存する所は限られている。今回訪れた西山コースに見られる遺構は数少ない現存する遺構の一つである。東に延びる尾根の頂点を避けて南側に連続して設けられた帯曲輪は不整形であり、そこにはルイス・フロイスが「日本史」で描いた山上の岐阜城の姿とはかけ離れた、急ごしらえの曲輪しかない。ただ、最先端の虎口曲輪だけは竪堀と土橋を前面に配した石垣造りとなっていて、城郭の最東端の堅固な防御陣地となっている。不整形の曲輪群はおそらくはこの虎口曲輪に関連を持つ曲輪、たとえば戦時の宿陣のようなものが考えられるだろう。しかし虎口は織豊系城郭の特徴である喰違い虎口などの発達した形態は備えておらず、築造時期はわからない。ただ、発掘調査が行われていない段階では、石垣造りであることから信長時代以降であろうことを想像するしかない。ところで、難攻不落と言われる岐阜城だが、実は何度も落城している。最も新しい落城は関ヶ原合戦の前哨戦であるが、今回歩いた西山ルートが岐阜城攻城の一つのルートであったことは間違いないだろう。