200910 中秋の名月昇る(2分間のインターバルタイマー撮影、コンポジット処理)

※中秋の名月は旧暦の8月15日、新暦では今年は10月3日の今日。
満月といってもこの時刻の月齢は14.7で、よく観ると左側が少し欠けていて、月の出も少し早い。
撮影中していると、父親と子どもがススキをとりに登ってきた。何を供えるのだろうか。

 かつて桜田勝徳氏は徳山村の年中行事中の「八月十五日」について、次のように記した。

「門入では放生會がある。此日人々は川から白い石を籠に一杯宛位拾って来て、宮の境内に敷く習慣がある。本郷では此夜芋をたいてお月様に供えると、若い者が之を盗りに来た。塚でも芋や豆をお月様に供えると、若い者が盗んだ。」(桜田勝徳『美濃徳山村民俗誌』1951年)。

 これは桜田氏が1936年に2度にわたって徳山村を訪れた時に採集された民俗事例である。中秋の名月の村の様子を生き生きと伝えている。
 その後1973年に刊行された岐阜県教育委員会『徳山 昭和47年度民俗資料緊急調査報告書』(1973年)には全く触れられておらず、行事としては廃れてしまったかのようである。
 しかし私の知る限りでは、徳山村櫨原では「マメンボヌスビ(豆ん棒盗み)」と称するこの行事を、徳山村でただ一つ1987年の廃村間際まで残していた。
 中秋の名月の夕刻、暗くなるのを今か今かと待ちわびた子どもたちが次々と集まってくる。何人かずつの仲間となって忍び足で村を回り、お供えを「盗む」ためである。それぞれの手には大きな袋が提げられていた。
 子どもたちが夜の闇に乗じて回ってくることを見越して、家々では名月に供える里芋・小豆棒などの他に、菓子などをいっぱい供えて待っているのだった。やがてそれぞれの手に携えられた袋は、子どもたちの大きな歓声を一緒に詰め込んで、持ちきれないほどに膨らんでいくのだった。年長の子どもたちは、一輪車やリヤカーまで持ち出して「盗んで」いく有様だった。中秋の名月の夜、いつまでも子どもたちの歓声は続くのだった。

 類例は全国的に認められ、東京近郊の農家などでは昭和50年代まで見られた光景だという(新谷尚紀『なぜ日本人は賽銭を投げるのか』2003年)。
 現在の新暦ではわからないが、かつての旧暦では月の満ち欠けを基準に1か月を決めていたので、月末は必ず新月、そして十五夜は必ず満月だった。季節の移り変わりの境目、秋のちょうど真ん中の中秋の名月を、私たちの祖先は大切にしてきた。最近旧暦の暮らし方に関する本を見かけるようになったが、私たちが忘れてしまった自然との関わりを考え直したくなる、そんな中秋の名月である。