鳳凰三山(2840m)
2006年8月20〜21日
山梨県南アルプス市夜叉神の森より


レリーフの等高線は20m。スケールの単位はm。

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第1日(夜叉神の森〜薬師岳小屋)

前日甲府まで車を走らせ、甲府駅近くのビジネスホテルで1泊。仮眠もそこそこに、2時半に起き出して3時過ぎに甲府駅へ。今日は日曜日。バスを待つ登山者は5、6人かという読みは大外れ。20人近くが並んでいた。しかも若い人が多い。4時発、甲府交通の広河原行きバスへ乗り込む。夜叉神の森へ着いたのは、5時少し過ぎ。ここへは各地からの路線バスが続々と集まってきていた。5時半にゲートが開くのを待っていたのは、路線バスの他、タクシーや送迎バスなど。若い人はほとんどが広河原まで。夜叉神の森で下りたのは、ほんのわずかだった。みんな北岳だ。
トイレを済ませて、登山道へ。コンターは急だが、綴れ織りに登っていくため、さほどきつくは感じない。しかし樹林帯の登山道は、早くも暑くてたまらない。風一つないから、樹林は暑苦しく迫ってくる。もう終わったかと思った千手岩菲などを見ながら、やがて夜叉神峠へ。峠を稜線に沿って右へ登り返し、しばらくすると夜叉神小屋へ着いた。ツアーの団体さんがたくさん休んでいた。
待っていたのは大展望。左から広河内岳、農鳥岳、間ノ岳、と続き、一番右が北岳。小屋前の樹林が開かれた所には、柳蘭が朝日を受けていた。
大休止の後、樹林帯の登山道をひたすら登る。決して急登ではないが、変化もないもない。贅沢をいうわけではないが、これが結構こたえる。樹林帯であれば万が一の雷でも安心だが、今日は雷雨にはなりそうもない。そうこうしていると、火事跡の開けた所に出た。そこは柳蘭の他、北沢附子や花錨がいっぱい。花錨は8月から9月にかけての花という。もう山は秋の気配だ。萼片の下の距がピンクに染まってなんとも可愛い。
黄花山苧環までがいっぱい咲いているとなると、黙って通り過ぎるのは忍びなし。しかし、今日の予定は薬師岳小屋まで。こんなことをしていたら着けなくなってしまうのは必至。まあ、いいか。南御室小屋でも、明日朝早く出ればいいんだから、と勝手な理屈を付けて登山モードから撮影モードへ。再び長い、長い登りの末、やっと苺平(写真右)へ付いたのが11時半過ぎ。先着の登山者も南御室でいいか、といったモード。みんな暑さと長い道のりにバテバテ。
苺平を過ぎると、辻山を巻いて、樹林帯の長い下り。芹葉塩竃(写真左)などを見ながら、やっと南御室小屋へ。先に南御室でいいかと言っていた先着者が、ボツボツ薬師岳小屋まで行くと出発していくのを見送って、大休止。ここに泊まるという登山者はまだ数名。小屋に聞くと、薬師岳小屋は昨日は80名、今日は60名ほどとか。寝られないのを我慢して、明朝のご来光が容易になる薬師岳小屋まで行くか、それともここで安眠か。結構悩んだ末、やはり予定通り行くことに。南御室小屋から薬師岳小屋(経営者は同じ)へ予約の確認をしてもらって、出発。その前に、水。ここを過ぎると水場はなし。もちろん薬師岳小屋にもなし。次は鳳凰小屋まで持つように、3リットルを満タンにして出発。南御室小屋を過ぎると、急登、また急登の連続。地質的には、南御室小屋のある鞍部を過ぎると、それまでの粘板岩から花崗岩へと変わり、稜線に花崗岩の露頭が見られるように。長い行程の最後にこの登りはつらい。おまけに飲んで軽くなったザックは、再び出発時まで重量が増えている。青息吐息で砂払岳へ。先行する同行者の呼ぶ声に声に、顔を上げると、高嶺ビランジのお出迎え。待っていてくれたんだ、そんな気持で一杯になる。
花崗岩の露岩に咲いているのは、高嶺ビランジの他に深山茴香(写真右)も。
白くザレた花崗岩の中に咲く花は、ひときわ際だって輝いている。まだ蕾がこの花なんて、可愛いという言葉以外見あたらない(写真右)。
よく見ると、所謂白花高嶺ビランジも混在して見られる。ややゆがんだ形に咲くのが、この花の特徴だという。普通、最盛期は9月上旬というから、決して時期が遅いということではないようだ。
どれだけ見ても見飽きないのだが、先発したたくさんの登山者は素通りしたように薬師岳小屋へ向かっていったらしく、誰も訪れない静かな花園だった。北には薬師岳の露岩がそびえていた(写真右)。
砂払岳の花崗岩を、マークを外さないように下り始めると、今度は小葉の小米草(写真左)が何一面に。眼下に薬師岳小屋が見えるのだが、ちっとも着かない。下からはきっと何で寝転がっているのかと、不思議に見えるんだろうな、などと思う。同行者は、この花を撮れて、この山へ来た甲斐があったとまで言い切っている。小屋近くには当薬竜胆(写真右)の群落が。もうここは秋なんだ。
薬師岳小屋はこぢんまりとした小屋だ。夕食はおでん。汁もおいしかったが、ご飯は固かった。水場のない小屋だけに、水は貴重なのだろう。小屋は2階もあるがこの日は1階のみ。布団1枚に2人といった混みようだった。もっとも半分がツアーの団体さんだったから、普通の日曜日はこれほどではいないかもしれない。夜中、寝付けず、ハシゴを登って上のザック置き場で寝た。ほとんど寝られなかった。夜半外へ出てみると、一面のガスだった。明日は本当に晴れるのだろうか。

第2日(薬師岳小屋〜薬師岳〜観音岳〜青木鉱泉)

3時過に起床。空は満天の星空で、天の川もきれいに見えた。団体さんが出発準備をするのを横目に、簡単に腹ごしらえしてヘッドランプで4時出発。真っ暗で、おまけにガスも出てきた。マーカーを見落とさないように慎重にルートをとる。しばらくザレた花崗岩の風化地帯を登ると、あっけなく薬師岳山頂に着いた。しばらくすると団体さんの登ってくるランプの列が見えたかと思うと、すぐに山頂へやってきた。ここで日の出を待つには時間があり過ぎると、観音岳へ向かうことにした。ヘッドランプだけが頼りで、ルートがどうなっているかは全くわからず。花崗岩の露岩をよじ登ったりしながら、観音岳へ到着した。ようやく辺りは白み始めた。考えてみれば鳳凰三山で一番いい稜線を、何も見ないまま通過してしまったのだった。やはり、薬師岳山頂で日の出を待つべきだったかな。写真左は雲たなびく地蔵岳のオベリスク。雲海に浮かぶのは甲斐駒ヶ岳。東の空に雲が出ていたが、少しだけ日が差し始めた。写真右はオベリスクの朝焼け。
写真左は北岳(左)と仙丈ヶ岳。写真右は、明るくなるのを待って出発していった団体さんと雲海の八ヶ岳。
振り返ると、薬師岳。ところで、富士山はほんの一瞬だけ頭を出したかと思う間もなく、雲が隠してしまった。写真右は花崗岩にしがみつくように咲く高嶺ビランジ。遠景はオベリスク。
当薬竜胆と北岳(写真左)。観音岳を下って行くと、何とそこには鳳凰沙参の蕾が(写真右)。見られないかと思っていただけに、感激。花崗岩の風化土壌という貧栄養環境にありながら、霧を水滴に変え、葉を極端に細くして水分の蒸発を防いでいる。かけがえのない植物だ。
観音岳のピークを下りて地蔵岳のオベリスクを見る(写真左)。花崗岩の隙間にしがみつくように咲く高嶺ビランジ(写真右)。本当は地蔵岳から賽の河原を回りたいと思ったが、バスの時間を考えて、鳳凰小屋への近道を選ぶことにする。
樹林帯に入ると、高嶺ビランジの他に、もう終わろうとしていた白山風露、それに秋の訪れを告げる晒菜升麻もたくさん咲いていた。急下降の登山道を一気に下り、ハシゴを下り、小さな谷を徒渉して鳳凰小屋に着いた。鳳凰小屋には水場があり、おいしい水を補給。再び3キロの重量追加。小屋で下山路について話を聞くと、御座石へは歩きやすい道が3時間、青木鉱泉への道は悪路で、早くて4時間、おそければ5〜6時間と。積極的に御座石への道を勧められるが、予定通り青木鉱泉へ下ることとする。
青木鉱泉への道は確かに厳しい。噂に聞く、南アルプス随一ともいうやっかいな道。でも順に現れる滝を見ては休憩しながら下る。次第に疲れてきて、休憩の回数が増える。なんといっても、1日で標高差1700mを下るのだから、大変だ。写真左は五色の滝、右は白糸の滝。この後に、鳳凰の滝、南精進ヶ滝と次から次へと滝が現れる。
今日のご褒美、蓮華升麻。樹林帯の薄暗い中、下向きにうつむいて咲く可憐な花。寝転がって撮ろうとするが、なんといっても暗い。満足に撮ることのできない分、しっかりと目に焼き付けた。たくさんの群落は、蕾を付けた個体も多く、これからしばらくは悪路を登下山する登山者を慰めてくれることだろう。本当に満足に撮れずに、残念。
地形図と高度計をにらみ合わせて、そろそろドンドコ沢に下りる頃と読んだ通りに、急下降。ようやく川沿いコースと山コースへの分岐に出た。少しでも短い道をと、川沿いを下る。荒れた、かつての砂防堰堤の工事用道路を歩くが、堰堤に登る度に足が動かなくなる。こんなことで本当に着けるのかと思ったら、工事用道路から山道へと変わったその次、目の前に青木鉱泉が現れた。やっと、やっと着いたのだった。13時32分だった。15時のバスまで時間はたっぷり。青木鉱泉の風呂に入り汗を流したり、鉱泉の女将さんに話をうかがったりして、至福の時を過ごした。
※鳳凰三山は危険な所も少なく、歩きやすいという。確かに鎖場があるわけではないし、ナイフリッジの岩場があるわけでもない。しかしその分、コースは思い切り長い。眺望のきかない樹林帯の長い道のりは、ボディーブローのように体にこたえる。少なくともそう思えた山行だった。稜線の最も素晴らしい核心部分を真っ暗な中通過してしまった上に、期待したご来光と富士山も見ることが出来ず、何とも残念なこととなった。その分、たくさんの花に出会えて幸せだったが、特に2日目は時間が厳しくて、ゆっくり撮ることもできずにひたすら下山することとなってしまった。体調管理の大切さと合わせて、いろいろ考えさせられた今回だった。
※さて鳳凰三山というものの、地蔵岳は見るだけで通過することとなった。これも少し残念だったが、時間と体力を考えると決して間違った判断ではなかったと思う。地蔵岳のオベリスクは、古くから「鳥岩」「おおとがり」などと呼ばれ、地蔵信仰からは地蔵仏岩と、大日信仰からは大日岩などとも称されたという。かつての山岳信仰では磐座そのもので、神聖な奥の院として人を近づけなかった。ウォルター・ウェストンが登頂したのは明治37年(1904年)。これからウェストンピークなどとも呼ばれた。
地蔵岳のオベリスクは麓からもはっきりと望むことが出来る。山麓の縄文人もまたこのオベリスクを仰ぎ見たことは確実で、集落に置かれた立石をこれに関連づける意見もある。立石は全国各地の縄文遺跡で多数確認されているから、この地だけのことではないが、いずれにしてもオベリスクを仰ぎ見た縄文人に思いにはせると時空を超越するようだ。
昭和9年(1934年)にはここから懸仏が発見されていて、少なくとも平安前期には信仰の対象とされていたことは確実という(とよた時『山の神々いらすと紀行』1997年)。そういえば、観音岳山頂から雲海の上に浮かぶ甲斐駒ヶ岳を見たが、甲斐駒ヶ岳山頂(2966m)からは三角点埋設の際に縄文時代後期の無文土器が出土した、という(原田昌幸「山と日本人」(『季刊考古学』第63号掲載、1998年))。我が国最高所の縄文遺跡である。そういえば、去年登った蓼科山山頂(2350m)からも縄文時代の石鏃が採集されている。縄文人が果敢に山を領域に取り込んでいたことを物語っている。