白山(2702.17m)
2006年8月6〜7日
岐阜県白川村大白川より


レリーフの等高線は20m。スケールの単位はm。

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第1日(大白川〜室堂)

白川村平瀬の白山公園線ゲート前は、5時半には長蛇の列。およそ20台の車が並んでいた。日曜日ですらこうだから、昨日はもっとすごかったことだろう。白水湖までの道路を確認した係員が解錠してくれたのが、5時45分。一路白水湖へ。降りてくる車がないため、みんな飛ばすこと飛ばすこと。写真右は登山口の休憩所。暑くなりそうだ。
登り始めが遅いだけに、たちどころに暑さが襲ってくる。白水湖畔ロッジに泊まるか、前日のゲートが閉まる前に駐車場へ入ることが出来れば、早朝出発が可能だが、仕事が終わってから車を走らせるというわけにはいかない。どのみち前日が無駄になる。うまくいかないものだ。登山道を登るとエメラルドブルーの白水湖が眼下に。楽しい道中だが、猛烈な暑さといつまでたっても白水湖が遠ざからないことにはうんざりする。
ブナの樹林帯を歩き、崩壊した登山道をロープを頼りにしながら登ると、大倉山主稜線に出た。そこには御前峰(左)と剣ヶ峰(右)の眺望が待っていた。大倉山最高点を過ぎて、やや下った所にある大倉山避難小屋で大休止。きれいな避難小屋だが、水場がないのが難点。そういえば、平瀬道は全く水場がない。林道などには全く出会わない自然あふれる登山道だが、この点が最大のネック。白水湖側が崩壊した稜線に出ると、そこにはお花畑が。右は高嶺松虫草。いつまでも梅雨明け直後のような気持ちでいたが、もう松虫草が咲いている。
ここでコンパクトカメラをザックにしまい、一眼レフを提げる。紅葉唐松や丸葉岳蕗。暑さにただただ閉口していたが、こうでなくっちゃという気になる。ここからは牛歩。今日はたどり着けばいいのだからと思うのだが、雷は大丈夫かなと不安も少し。奥は別山方面。
おなじみの伊吹虎の尾に下野草の向こうに見えるのは、白水湖。
雪渓の雪が溶けた跡の少しぬかるんだ登山道から急登へ変わる。この辺りからたくさんの花の出迎えを受けるカンクラ雪渓沿いの階段登りでは、深山金梅や稚児車の群落。背後は御前峰。こんな所に出くわしたら、ただでさえ遅い歩みがさらに牛歩に。
白山小桜や黒百合もたくさん咲いていた。黒百合、ひっそり咲いているように思ったら、いっぱい群生していた。御前峰をバックにまるでポーズをとっているみたいだ。
青の栂桜もたくさん咲いていた。右は黒百合。いつまで撮っていても飽きない程の群落。
階段の急登を過ぎて、溶岩台地に出ると、お花畑が広がっていた。白山小桜や深山金梅も初々しい。
白山小桜。雪が遅くまで残っていたからだろう、きれいな姿を見せていた。
今年は見られないとあきらめていた小梅尅垂フ花。室堂平で一株だけ見つけた。深山大文字草。
やっと、やっと到着した室堂。早速500円の生ビールを注文するが、これがあまり冷えていなかったことが唯一の残念。冷える暇もないほど注文が殺到したということなのだろう。
白山奥宮祈祷殿・参籠殿の後ろには御前峰。夕日に映える。西日に照らされる岩桔梗。
こんなに天気がいいもんだから、室堂ビジターセンター前は宿泊者がいっぱい。写真右は展望台から見たビジターセンターと御前峰。
ビジターセンター裏には伊吹虎の尾がたくさん咲いていた。東の空には月が。
夕食。2002年に改修されたばかりのビジターセンターの食堂にて。デザートがおいしかった。8時半の消灯を待って、センター前で三脚を立てた。写真右は月明かりに照らされた御前峰。
※平瀬道は豊かな自然を楽しみながら登ることのできる好印象の道だった。ただし、水場がないのが最大のネック。この日は各自2.5リットルを用意したが、耐暑登山でほぼ飲み尽くしてしまった。これはきつかった。すれ違う下山者も額に汗一杯だっから、それほど暑かったということだろう。室堂の生ビールが冷えていなくて残念だったが、生ビールが飲めるだけでも幸せで、贅沢を言っては罰が当たるというもの。
※3棟ある宿泊棟のうち我々はこざくら荘の1号室、1番だった。改修を機に完全予約制となった室堂だが、予約なしで宿泊する人も多いらしい。わかったことは、予約順に1号室から割り振られているらしいこと。予約なしの人は遅い番号の部屋になっているらしく、そこでは二段ベッドの上まで満員のようだった。1号室は、上はゼロで快適に眠ることが出来た。

第2日(室堂〜御前峰〜大白川)

3時過ぎに起床。空は満天の星空だった。御前峰を目指して登るベッドランプの列が、祈祷殿から続いていた。我々も3時半過ぎに身支度を整えて出発。ご来光1時間前を知らせる祈祷殿からの太鼓の音が4時に響き渡った。白山比盗_社の権宮司さんが神職の服装のまま、下駄を履いて、ランプも持たずに登って行かれたことには驚いた。慣れておられるのだろうが、毎朝となると大変なことだ。日の出を待つ山頂は登山者でふくれあがっていた。日の出を待つ間、権宮司さんのよく通る説明の声が響く。東の空に雲があって、残念ながら北アルプスからの日の出とはならなかった。神職さんの音頭で五穀豊穣、家内安全を願っての万歳三唱。右は朝日に照らされる大汝峰(左)と剣ヶ峰(右)。
朝日の大汝峰は美しかった(写真左)。室堂平越しに別山を望む(写真右)。
三角点は記念撮影の順番待ちでごった返していた(写真左)。さて、この三角点だが、勿論一等三角点。国土地理院の『点の記』によると、点名は「白山」。石川県白山市(旧石川郡白峰村大字白峰29号1番5)となっている。日の出の後で日供祭が行われた奥宮もいつの間にか人が去って静かになっていた。お池めぐりに心は引かれるが、室堂平へ戻って、のんびりと写真を撮りながら往路を引き返すこととする。
室堂センターを背後に朝日を受ける黒百合。写真右の奥は別山。
万才谷雪渓上部と別山(写真左)。深山金梅と別山(写真右)。
白山小桜(写真左)と白山風露(写真右)。
白山風露の群落にも出会った(写真右)。
もう終わりかけの四つ葉塩竃(写真左)。カンクラ雪渓周辺に咲く花はいつまで撮っていても飽きない。
これが白山小桜の撮り納め(写真左)。昨年の大出原の群落にも感激したが、それに勝るとも劣らないか。これで見納めとなると、少し寂しい気がする。写真右は下山路の信濃金梅。
登りに見落としていた衣笠草も撮影して、ひたすら下山。昨日の反省をふまえて3リットル水を持って下ったが、下山路とはいえ、暑くてたくさん飲んだ。高度計が示す数字を励みにひたすら下って、たどり着いた登山口だった(写真右)。
※今回は耐暑登山だった。それぞれが一眼レフと交換レンズ、三脚、それにコンパクトカメラを持参したものだから、かなりの重量となった。暑さに閉口し、参ったが、たくさんの花にも出会うことが出来て、振り返って見ると楽しい山行だった。
※山行が楽しかったのは、山と花に出会えたからだけではない。宿願の白山に登ることが出来たからである。加賀や越前と違って、美濃の平野部から容易に望むことの出来ない白山だが、岐阜市近辺でもごく狭い山塊の隙間をぬって真っ白な白山は姿を見せてくれるし、大垣市の南部へ下がるとひときわ白い山容を見ることが出来る。容易に望むことの出来ない白山だが、能郷白山はもとより、揖斐谷近辺でも小津権現山や、少し高い山に登ると真っ白な白山を見ることが出来る。白山信仰のネットワークだ。左図は国土地理院『数値地図50mメッシュ(標高)』とカシミール3Dを利用して作成した白山御前峰可視マップである。赤く着色した範囲が可視範囲である。
※「ハクサン」は私が物心ついてから親しんだ名前だった。私の母校は岐阜市の白山小学校で、近くに白山町があった。その名の由来が、かつてそこにあって、現在は溝旗神社に合祀されたような形で移転した白山神社に由来することを教えられたのは、中学1年生のことだった。中学生時代に指導を受けていた吉田幸平氏(後、カリフォルニア大学教授、ニューヨーク州立大学副学長)は、1972年に『美濃における白山山岳信仰』を著し、その後白山信仰に関係する論文を多数発表している。私が指導を受けていたのは、丁度その研究の最中であり、それだけに氏の話はひときわ印象に残っている。いつかは登りたい、と思い続けた山だった。
※今回の登山では、白山信仰の本宮である白山一帯に残された遺構を訪ねるという思いを密かに抱いていた。周知の通り、白山にも廃仏毀釈の波が押し寄せている。白山の主神は白山比淘蜷_(菊理媛神)であるが、白山は天台宗を中心とする山岳信仰の山でもあり、御前峰は十一面観音、大汝峰は阿弥陀如来、別山は聖観音であった。この本地垂迹説に基づく山岳信仰の場は、慶応4年(1868年)3月に出された「太政官布告」、所謂「神仏分離令」によって、断行された廃仏毀釈に発展していったのである。この際に所謂下山仏として山麓に下ろされた仏像の存在はよく知られているが、白山には今もなお廃仏毀釈前の遺構が残るはずである。そう考えると興味は尽きない。
 今回この点について、白山比盗_社権宮司北村伸一郎氏からいろいろとお話をうかがうことができたことは幸いだった。白山頂上一帯は1986年8月26日から9月2日まで國學院大學考古学資料館によって調査が行われている。この時の対象は御前峰・大汝峰が中心だったが、発掘といっても遺物の表採と地形測量が中心だったようであるが、多大な成果を上げている(國學院大學考古学資料館白山山頂学術調査団『白山山頂学術調査報告』(1988年)、椙山林継「白山山頂出土遺物と白山信仰」(『山岳信仰と考古学』(2003年)所収)、小島芳孝「加賀白山山系」(『季刊考古学』第63号(1998年)掲載、他)。北村氏はこの調査についてもよく覚えておられ、調査の様子についてもうかがうことがてきた。また昭和初期まであって大室の場所についても確認することが出来たのは望外のことで、突然の訪問にもかかわらず丁寧にご案内いただいた北村氏には深く感謝する次第である。
※さて、三ノ宮の白山比盗_社は全国3000余の白山神社の総本宮で、白山御前峰を奥宮としている。白山は新生代第三紀に噴火し、その後山頂崩壊を起こし、1659年の噴火を最後に目立った活動は起こしていないが、活火山に分類されている。翠ヶ池は長久3年(1042年)に水蒸気爆発によってできたと推定されている火山湖で、この時白山神社が自焼したと『白山記』にある。
 『白山縁起』によると、白山は養老3年(719年)7月泰澄が初めて登山し、白山神の託宣を蒙るとあり、天長9年(832年)には加賀禅定道、越前禅定道、美濃禅定道の三方馬場が開かれたとされている。前掲報告によると、御前峰山頂からは須恵器、土師器、灰釉陶器、無釉陶器、かわらけなど40点余りが採集されている。これらは9世紀後半を上限とするもので、11世紀前半にかけてのものが見られる。中心は美濃の灰釉陶器であり、加賀・越前系遺物はほとんど見られない。11世紀中頃から後半にかけての遺物は少なく、11世紀末から12世紀中頃になって再び遺物は増加し、瀬戸・越前・珠洲が見られるようになることがわかっている。これより小島芳孝氏は9世紀後半に人が人が登り始めた時は、加賀や越前ではなく、白山東麓の美濃方面であろうと推定している。
 近年、9世紀後半から美濃の灰釉陶器が、例えば揖斐谷のような狭隘な山間峡谷部にまでもたらされることがわかってきたが、これらはこの時期に山間部の開発が進められ、少なからず生産力の増大がもたらす要因であったとしても、合わせて白山を頂点とする山岳信仰の浸透も考える必要があると思う。今後考えていきたい課題である。なお近年、別山からの採集遺物も紹介されている(佐伯哲也「白山別山頂上で採取した遺物について」(『美濃の考古学』第8号(2005年)掲載)。併せて紹介しておきたい。