射能山(ブンゲン、1259.7m)
2006年5月21日
滋賀県米原市(旧伊吹町)甲津原奥伊吹スキー場より


レリーフの等高線は20m。スケールの単位はm。

日曜日ようやくの晴れ。今日は江濃国境の山、射能山(ブンゲン)を歩くことにした。余り知られていないが、伊吹山系では金糞岳に続いて第3位の標高を持つ。射能山へは坂内の諸家から品又林道を詰めると、品又峠まで車で行くことが出来る、揖斐谷近在の山だ。しかし、この冬の大雪で林道の状況がわからない。そこではるばる伊吹山を迂回して甲津原から登ることにする。9時10分、奥伊吹スキー場のハウスにお願いして、ゲレンデ前に駐車(写真左)。山と渓谷社の「新・分県登山ガイド 滋賀県の山」には、若竹荘からの登山ルートが推奨されている。ゲレンデを詰めるルートでは、第9・10リフトに沿って登るルートも記されているが、品又峠からせの稜線歩きは藪こぎでルート不鮮明で注意が必要とされている。駐車場で一緒になった福井県から来たという車は、ガイドブック通りに若竹荘へと引き返していった。すがすがしいが、日差しが強いゲレンデを歩く。第4駐車場でドリフトする車の爆音とタイヤのきしみ音が、何とも不釣り合いだ。
第1ゲレンデからしゃくなげゲレンデを歩くと、右に平均斜度25度のチャレンジコースへ(第9リフト)の分岐に出る。ここからチャレンジコースに沿って登るのが一般的らしいが、今日は品又峠へ。昨日の雨のせいか、ゲレンデ横の谷の水量は多い。ここで、品又林道を終点まで車で来て、射能山へ登るために第9リフトまで下りるという、2人連れと出会った。しばらく登ると、第9リフトを登る10人ぐらいの一団を見下ろした。マイナーな山かと思ったが、やはり人は多いのだ。
江濃国境に出て、最大斜度35度のチャンピオンコース越しに金糞岳を望む。お手軽な山へと変身させてしまった鳥越林道は、美濃側では雪崩と土砂のためまだ通行することは出来ない。写真右は小高いピークに設けられた展望台。
展望台直下に埋設された四島三角点。国土地理院の「点の記」によると、点名は品又峠。岐阜県坂内村(現揖斐川町)大字坂本字品又2184番地の1、標高1045.58mとなっている。写真右は展望台から揖斐谷方面を眺めた所。峠直下まで林道がついている。
写真左はすぐ横の貝月山を見た所。さて、ここからどうするか。一度ゲレンデを下りて第9リフトを登ることも考えたが、地形図をにらみ合わせた上で、稜線づたいに射能山をめざすことにする。写真右は射能山方面。
ここまでのんびりしたので、結構時間がかかっている。崩落著しい旧スキー場を登る(11時22分、写真左)。山全体が花崗岩だ。見送ってくれるのは、金糞岳の大きな山容。ひとしきり急登を登ると、残雪と瑞々しいブナの新緑、それに青空が広がる世界が待っていた。
大展望のピークで大休止。写真左は能郷白山とその右奥に加賀白山。少し霞んでいて、写真ではわかりにくいかもしれない。写真右は小津権現山などなじみの山が連なる。先着者は一人。年配の人だったが、何とその人はドライブマップ1冊を頼り歩いていた猛者。金糞岳へ行こうとして間違ってこちらへ来たというのもすごいが、ここから稜線伝いに金糞岳へ歩いていけないかと尋ねられたのにもびっくりした。こちらが藪こぎをして射能山へ行くというと、同じコースをたどってみると、先発していった。
地形図とコンパス、高度計で現在地とルートを確認して、12時07分出発。いきなり藪につっこむ(写真右)。猛烈なチシマザサで、背丈を遙かに超えている上に、踏み跡も乏しい。おまけにルートを示す赤テープはほとんど付けられていないとなると、このルートが積雪期以外は利用されていないこともよくわかる。おまけに稜線付近は複雑に開析された地形で、霧がかかるとルートを見失う可能性が高いというのもよくわかる。おまけにここはクマの生息地だとか。当たり前か。
谷に残る雪渓を下る。直下の水音に冷や冷や。ひとしきり歩いたら、林間のゲレンデへ出た。第9、第10リフトを登ってくるルートとここで合流する。
時折猛烈な藪こぎをしながら、江濃国境を歩くと、やかで射能山山頂が見えた(13時03分、写真左)。団体さんはすでに下山したらしく、山頂は誰もいない空間だった。かつてここを覆っていた猛烈な藪は、現在は刈り払われて、大展望が得られる(写真右)。
埋設された三角点は三等三角点で、国土地理院の「点の記」によると、点名は大岩谷、所在地は岐阜県春日村(現揖斐川町)大字美束字品又3889番地の78、標高1259.72mとなっている。冬季以外は人を寄せ付けない藪の向こうには、虎子山、伊吹北尾根の山々、そして伊吹山が連なっていた(写真右)。
写真左は貝月山。山頂は日照りが強い上、無数の蠅が飛んでいた。そういえば、この時期必携の蚊取り線香を持ってこなかったことを、少し後悔した。大休止の後、13時51分下山の途に着く。ルートは、分県登山ガイドに記された登山道。のっけから藪こぎを強いられたが、それからは安定した尾根道を下る。ただし、指導標や赤テープなどはほとんどなく、地形図、コンパス、高度計必携。道を外さないように、何度も確認しながら一路下る。スキー場が近いことは、次第に車の爆音とタイヤのきしみ音が大きくなってくることからわかる。
15時16分、尾根を下りきって大長谷に出た所で、初めての指導標(写真左)。逆に言えば、このルートを登山路として使う場合は、ここさえ間違えなければ、あとは登るだけということでもある。不安定な丸太橋を渡る(写真右)。
次の指導標は、谷に水源を求めた若竹荘のパイプにつけられていた。ここからはパイプに沿って若竹荘へ出るだけなのだが、谷沿いの古い道をたどったおかげで、第4駐車場に出ることとなった(15時30分、写真右)。途中崩落箇所もあったので、素直に若竹荘に出た方がよかったかもしれないが、どちらにしても大差はないだろう。カメラを向けると、元気な若者達がこちらを見上げて手をふってくれた。
射能山の名の由来は、先のガイドによると「甲津原で山中にウランなどの元素が含まれていることからこの山名が生まれた」と紹介されているし、各文献にも同様の記述が見られる。これについては、これ以上述べる術をもってはいない。一方、射能山はブンゲンとも呼ばる。現在ではブンゲンとして紹介されることの方が多いようだ。
 ブンゲンの名は、手元の資料による限りでは、後藤芳雄「亡びゆく国境の峠」(『かもしか』第12号、1963年、岐阜登高会)中の「百池峠」で、「地図の貝月山の左下に、国境山稜に三角点1259.7メートルがあり、これをブンゲンと言うと炭焼きに聞いたことがある。」と記しているのが初見である。後藤氏は1948年晩秋の山旅日記の抜粋として百池峠を記している。
 百池峠のことやら、江濃交通のことなど、まだ記さねばならないことが多くあるが、稿を改めることにしたい。
※下山してザックをかついだままスキー場のハウスで自販機で飲み物を買おうとすると、「そんなもん買わんでいい、お茶ぐらい飲んでけ。」と声をかけられた。うかがうと、奥伊吹スキー場代表取締役の草野丈正氏。奥伊吹青少年旅行村村長でもある。ハウスの食堂でいろいろなお話をうかがったが、実に興味深かった。話を聞く中で、品又峠が江濃国境の交通の要衝であったことを改めて知った。揖斐谷の歴史の観点からも、勉強し直さねばならないと思い知らされた山行だったし、お話をうかがうことができたことだけでも来て良かったと思える山行だった。
 画像はスキー場に立つ草野氏の顕彰碑。決して故人ではない。1922年生まれ、現在も除雪のブルドーザーを運転される、現役の社長である。
※草野氏から射能山の所有は、現在は名古屋市の東山遊園地だと聞き驚いた。調べてみると、三角点付近は不動産会社東山遊園外1名となっている。名前は同じだが、あくまでも不動産会社ということらしい。