雪野山(龍王山)(308.82m)
2005年9月10日
滋賀県東近江市(旧八日市市)羽田八幡社古墳公園より


レリーフの等高線は20m。スケールの単位はm。

土日の天候が悪いという予報のため、高い山へ行こうという気にならない。昼近くまでぐずぐずしていたあげく、思い立って湖東へ出かけた。名神多賀サービスエリアは下りと登りが陸橋でつながっていたことを思い出して、下りSAに車を止めて上りSA内に一部保存されている敏満寺遺跡(敏満寺城と呼ばれることもある)を見学。それから八日市ICまで車を走らせて、雪野山(龍王山)を歩くことにする。雪野山東麓の八幡社古墳公園に車を止めると、いかにも山から下りてきたばかりという汗だくの人がいた。山頂までどれぐらいかとたずねると、1時間もみておけばいいとのこと。でもこれからだと真っ暗になると言われ、念のためにヘッドランプを持って行くことにする。先ほどの通り雨で下がしっかり濡れている。今日は雨傘も持参。まずは八幡社古墳群を見学。現状では16基が県指定史跡となっている。古墳時代後期の群集墳で、盟主は第46号墳(写真左)。小さいながらも前方後円墳である。全長31m、後円部径11m、後円部高さ3.5mで、前方部端部が一部破壊されているものの、原形をとくとどめている。写真左の手前が後円部となる。実測図からはくびれ部には小規模ながら造り出し状の高まりも見られる。この古墳の特徴は、小規模な前方後円墳でありながら、内部主体に横穴式石室を3つも有することである。いずれも南に開口方向をとり、そのうち最大のものは後円部に設けられた両袖式の横穴式石室で、玄室と羨道を合わせた全長が7.2mを計るものであり、3つの石室中最古のものと考えられている。次いで、前方部に平面形でL字形を呈する特異な石室が築かれ、最後にくびれ部に片袖式横穴式石室が築かれている。石室はすべて開口していて、一部を除いて見学することができる。写真右は八幡社古墳群とその奥に八幡神社。
古墳群の間をぬって八幡神社に至り、そこからは奥宮への石段を登る(15時28分、写真左)。苔むしている石段に雨があたって、つるつるに滑りやすい。今日はここを下りに使うとあぶないかもしれない。奥宮まで一直線に石段の急登をあえぎあえぎ登り、斜面をトラバースすると休憩所に着いた。もう汗だらけ。結構しんどい道だ。ここで水を飲み、覚悟を決めて稜線まで登る(写真右)。整備された階段は、中央に手すり代わりのロープが張られている。雪野山古墳がマスコミに取り上げられて一時騒然とした後に、ハイキング道として整備されたものらしい。一大ブームとなった直後は、交通整理が必要なほどだったのかもしれない。
稜線手前でハイキング道を振り返る(15時50分、写真左)。稜線に鉄塔があるため、付近が切り払われて視界が得られる。やがて稜線に出て、竜王町からのハイキング道と合流する(15時51分、写真右)。
しばらくは稜線歩き。山頂への途中に人為的な削平地が認められ、中世の山城として機能していたことをうかがわせている。しばらくして雪野山山頂に到着した(16時04分、写真左)。山頂には一等三角点が埋設されている。国土地理院の「点の記」によると、所在地は滋賀県蒲生郡竜王町大字川守字竜王山1番地の1となっていて、点名は「竜王山1」である。
さて、山頂は実は古墳時代前期の前方後円墳、雪野山古墳の後円部にあたる。雪野山古墳は全長約70m、後円部径40m、前方部長30mで、後円部の高さは4.5m以上であり、前方部端はやや撥形に開くことがわかっている。高さ4.5m以上というのは、中世城郭がここに築かれた際に削平されているからである。雪野山古墳が注目を浴びたのは1989年のことである。それまで雪野山山麓に知られていた、後期を中心とする200基あまりの古墳群の一部を利用して「雪野山史跡の森整備計画」が持ち上がった時、山頂に展望台を建設する計画が立てられ、その事前調査が行われたことを発端とする。事前調査を実施した八日市市教育委員会は未盗掘の竪穴式石室を発見したことを発表し、報道ヘリコプターが飛び交う中、現地説明会には2250人がこの山を登った。今のようにハイキング道が整備される以前のことである。雪野山古墳はその後学術調査の体制の下に数次にわたって調査が行われた。竪穴式石室は2段の墓壙の中に築かれ、全長6.1m、幅約1.5m、高さ1.6mで、天井石は1枚を残して失われていたが、埋葬主体は原位置を保って検出されている。竪穴式石室は前方後円墳に主軸とは無関係に、被葬者が北枕となるように造られている。出土遺物としては、舶載の三角縁波文帯盤龍鏡、三角縁唐草文帯四神四獣鏡、三角縁四神四獣鏡とほう製の内行花文鏡、だ龍鏡の5枚の鏡の他、鍬形石などの石製品、農耕漁具、武器・武具等が出土している。埴輪は発見されていない。写真左は後円部から前方部を見たところ。写真右はくびれ部から後円部西側に残る帯状の高まり。おそらくは中世城郭として再利用された際に後円部が一部削平され、西側に土塁が設けられたことを物語るものだろう。
写真左は前方部から後円部を見たところ。前方部両側に竪堀が設けられていて、中世城郭として用いられた際には両側を竪堀で固めた土橋であったことがわかる。一通り概観して、下山の途につく。写真右は後円部墳端の平坦地。ここに雪野山古墳の解説板が設置されている。この平坦地は、後円部墳頂を主郭とした中世城郭の腰郭として機能していたようで、人為的な作為が認められる。16時15分、下山開始。
往路のツルツルに滑る石段を避けて、雪野山の主稜線ほ南に下る(16時19分、写真左)。尾根道は良く整備されていて、竜王町側の妹背の里から登る道がメインであることを知る。所々に岩盤が出るが、通行が疎外されることはない。やがて丸太階段の急坂を下る(16時21分、写真右)。
急坂を下った所に、突然巨大な竪堀が現れた(16時24分、写真左)。尾根に対して直角に西斜面に掘り込まれた竪堀の向こうは土塁状の高まりのようで、防御性を高めている。ここを越すと、もう1条の堀切と竪堀が現れた(写真右)。これも先ほどの竪堀に平行して入っている。つまり二重の竪堀となる。
鞍部を過ぎて少し登り返した所から振り返る(写真左)。わかりにくいが、堀切と竪堀が入っている。もう少し登って振り返ると、雪野山頂上が見えた(写真右)。
しばらく登り返したピークに休憩所があった。「大岩」と名付けられている(16時31分、写真左)。ここから「平石」へ下る(16時33分、写真右)。平石への下山路は道が荒れていた。ハイキング道としてかつては整備されたようだが、草は茂るし、倒木は道を覆っている。雪野山のハイキング道は何本もあるようで、これだけ数があると維持だけでも大変だ。足下が見えないので、用心してゆっくり下りる。
平石へ下りてから山麓に沿って北へ歩き、古墳公園に着いたのが17時01分だった。よく見るとコンクリートで復元住居が造られている。といっても調査例があるわけではないので、復元ではないが。駐車場でずぶ濡れになった衣服をすべて着替えた。空には再び暗雲が漂って、雷鳴が轟いていた。写真右は雪野山を東から見る。
※思い立っての雪野山だったが、いろいろ勉強になった。山麓だけではなく、尾根筋にも古墳の存在が認められるようで、雪野山古墳の被葬者の性格を考える上で興味深い。また、城郭遺構が散見されることなど、注意すべきことも多い。今度は尾根を縦走するコースで歩いてみたいものだ。雪野山はかつてのブームが嘘のように静まりかえっていた。たくさん付けられたハイキング道も、使われている道はほんのわずか、といった感じを受けた。自然保護と遺跡の活用ということから考えさせられることが多いように思う。