北八ヶ岳・北横岳(2471.60m)・蓼科山(2530.31m)
2005年8月27〜28日
長野県茅野市ピラタス蓼科ロープウエイより


レリーフの等高線は20m。スケールの単位はm。

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第1日(ビラタス蓼科ロープウエイ〜北横岳〜亀甲池〜双子池ヒュッテ)

8月に入ってからというもの、土日の天候が余り良くない。夏山のしめくくりとしてどうしようかと考えていた所、幸いにも台風がそれたため最終土日を利用して北八ヶ岳へ出かけることにした。一泊しかできないため、疲労困憊の白馬鑓よりも楽な山ということで考えたが、はたしてどうか。ピラタス横岳はピラタス蓼科と名称を変えているが、まさに観光地そのもの(写真左)。大振りなザックを背負っていると恥ずかしいぐらいだ。ピラタスロープウエイ山麓駅には広い駐車時用がある。ここに車を置き、繁忙期だけあって10分間隔で運行しているロープウエイに11時丁度に乗る。これで標高差464mを7分で山頂駅へと向かう。満員のロープウエイから、蓼科山から女神茶屋への下山路にあたる稜線が見える(写真右)。3度の急下降とそれをつなぐ溶岩台地が手に取るようにわかるが、急下降の傾斜はきつそうだ。
山頂駅から坪庭への道は観光客でごった返していた(11時07分、写真左)。坪庭への溶岩のゴロゴロ道を行く人たちが、アリの行列のように見える(写真右)。
縞枯山を右に見ながら坪庭を歩くと、北横岳への登山道への分岐に至る(11時27分、写真右)。ここからは少し静かになるかと思ったが、意外と軽装で北横岳や七ツ池まで出かけようとする人がやはり多かった。急斜面につけられた登山道を行くと、42人の団体につながってしまった。少しずつ追い抜きながら、北横岳ヒュッテをめざす。
北横岳ヒュッテは北横岳溶岩円頂丘の直下に立てられている(12時01分、写真左)。ここで小休止だけして、直登の山頂を目指す(12時12分、写真右)。急登の向こうには夏の雲が出ていた。
12時18分、三角点のある北横岳南峰に到着(写真左)。ちなみに山名は横岳だが、南八ヶ岳の横岳と区別するために北横岳と呼称されている。三等三角点とケルンの向こうは明日登る蓼科山が頭を雲に隠していた(写真右)。国土地理院の「点の記」によると、点名は横岳で、所在地は長野県茅野市大字湯川字横岳4032番地となっている。
南峰から北峰を望むと、山頂は人であふれかえっていた(写真左)。こちらもともかく北峰へ向かうことにした。写真右は人でごった返す北峰山頂。北峰には三角点こそないが、三角点峰である南峰よりもわずかに標高が高い。そのためこちらを山頂とする標識がある。
北峰で腹ごしらえをして、亀甲池への急降下に備えて靴紐を締め直していると、蓼科山にかかっていた雲が晴れ始めた(写真左)。山頂から少し下りた所から右へ伸びる溶岩台地が将軍平。あそこから登っていくのだが、溶岩円頂丘のゴロゴロ急登はしんどそうだ。写真右は北横岳の噴火口跡にできている小さな池を見下ろした所(写真右)。北横岳の噴火と火砕流が山麓へ流れたのは約1万年前と言われている。縄文時代草創期に当たるが、一説ではこの時の火砕流の一部が諏訪湖に押し寄せ、諏訪湖の形状を変え、縄文時代草創期の遺跡である曽根遺跡を湖底へと沈めることとなった、とも言われている。ちなみに日本には108の活火山があるとされるが、ここでいう活火山とは1万年以内に噴火した証拠がある場合や活発な噴気活動がある火山を指している。火山噴火予知連絡会は2003年に火山の定義を上記のように見直し、それまでの86火山から108火山へと選定が変更されている。従って、休火山や死火山という言葉は使われないようになっている。北横岳は乗鞍岳や白山と同じランクCに分類されている。12時43分、北横岳山頂を出発し、亀甲池への急坂をひたすら下りる。ゴロゴロの溶岩をまたいだり、倒木をくぐったりと大変な道だ。樹林帯の中で眺望がないことも疲れさせる一因となっている。
13時43分、亀甲池へ下り立つ(写真左)。北横岳から誰も下りてくる様子がないので、静かな池かと思ったら、東京から来たという7〜8人のグループが先着していた。亀甲池は最大深度1mとされているが、この日は水が少なくてもっと浅いように思われた。標高は2035mで、北の双子山から流れ出た溶岩流によって狭められている。亀甲池は噴火口跡ではなく、溶岩丘間の凹地に相当する。池の底には岩塊が亀甲状に配列している。ここで腹ごしらえの大休止。ここまで来れば、あとは双子山の溶岩丘を越えて双子池へ下るだけだ。天候の心配もないということで、先着のグループものんびりと休んでいた。
14時03分に亀甲池を出発。溶岩丘への直登をひたすら登る。所々は苔むした大きな岩塊があり、かつてここへ流れ出した溶岩流のすごさを知ることができる(写真左)。14時33分、双子池(雌池)に到着。池畔はキャンプ地に指定されているが、夏も終わりということか、誰もいなかった。雌池は最大深度7.7m。溶岩丘間の凹地に湧水を水源とする池である。
雌池に沿って歩くと、14時47分双子池ヒュッテに到着した(写真左)。写真右はここから双子池(雄池)を望んだところ。雄池は最大深度5.1mで、かつては雌池と一体となっていたものが、双子山からの溶岩流によって二分されて今日に至っている。雄池も湧水を水源としていて、この湧水は双子池ヒュッテの水源となっているので、汚染が禁じられている。
あまりにも早く到着したので、時間をもてあます。こんな時はヒュッテ前でビールを飲むしかない。よく冷えていておいしかった。ただ残念というか、場違いなのは、ヒュッテまで林道が届いていること。一般車両は通行できないものの、バイクが時折やってきたり、ヒュッテの車が置いてあったりと、山小屋とは少し違う所だ。何だか変な感じだ。写真右はガスが湧き上がる雄池。写真右は両池間に安置されていた不動明王像。
ヒュッテ近くに咲いていたハナイカリ(写真左)。リンドウ科の秋の花だ。まだハクサンフウロも咲いていた(写真右)。
霧が立ちこめる雄池(写真左)。夕食は豚汁と野菜の天ぷら。どちらも大変おいしかった。
※1日目の行程は時間に十分なゆとりがあったため、かえって時間を持て余してしまう程だった。もう少し早く出られると、大河原ヒュッテまで歩くことも可能だが、夏の午後は雷雨の心配があるので、ここまでが妥当な所か。それにしても双子池ヒュッテへ電話で予約した時には、最近は少ないとのことだったが、この日は70人ぐらいが宿泊する満員状態だった。さすがに布団1枚で1人は寝られたが、こんなに混むとは予想外だった。もう一つ予想外だったことは、ここへやってくる団体の騒ぐこと、騒ぐこと。夕食後も外で大宴会をしていたが、これがアルプスだったらこんなことをしようとも思わないのだろう。都会に近い山という気軽さがなせる仕業かもしれないが、たまったものではない。せっかくの山行の印象が悪くなってしまう。ちなみにこの日の宿泊客のほとんどが、我々よりも年配の人たちだった。

第2日(双子池ヒュッテ〜双子山〜大河原峠〜蓼科山〜女神茶屋)

夜半に雨が降った。3時頃外に出てみると、オリオン座が少しだけ出ていたが跡はガスの中だった。持参した食料で朝をすませ、弁当をもらって5時にヒュッテを出た(写真左)。空はガスのせいもあって暗いが、ランプを付けるほどでもない。双子山へのなだらかに道を登るが、暗い空も手伝ってか足が思うようには進まない。カラマツの原生林からシラビソへと変わった頃に稜線に出た。そこからなだらかな稜線歩きで山頂に着いたのが5時46分(写真右)。双子山には三等三角点が埋設されている。国土地理院の「点の記」によると、点名は「麦原」。標高は2223.77mで、長野県南佐久郡佐久穂町大字上字屋敷入奥884番1となっている。
高原のような双子山山頂から周りを見渡すが、ガスが立ちこめていて視程はよくない(写真左)。これからこんなガスの中を蓼科山へ登るのかと考えると、気分が滅入ってしまう。大河原峠から下山しようか、どうしようかなどと考えていると、大河原峠が見え始めた(6時01分、写真右)。
眼前には蓼科山に至る前掛山が立ちはだかっている(写真左)。双子山にはマツムシソウがたくさん咲いていた(写真右)。
オヤマリンドウの蕾。といっても、よく見ると先が少し開いている。オヤマリンドウはほとんど開かないので、これで終わりに近い。大河原峠には広い駐車場があり、次々と車が上がって来るようだった。ここまで車で来て蓼科山、または北八ヶ岳の池巡りハイキングということのようだ。ここで大休止。ヒュッテのテレビで天気を確認すると、どうやら良さそうだ。降水確率も低い。ならば登るしかないと、自販機でお茶を買って腹ごしらえをしてから出発する(6時39分、写真右)。
前掛山への登山道は、ゴロゴロの溶岩急登で、しかも直登。青息吐息で前掛山まで登る。その後ろの将軍平は溶岩台地のなだらかな稜線歩き。縞状に立ち枯れたシラビソ(写真左)。縞状に枯れる原因については、さまざまな説がある。近年では酸性雨によるものというものまで出ているが、ここだけに見られることからそれはありえないとされている。どうやら、諏訪湖側から吹き上げる南西の強い風と、火山性の岩石におおわれた浅い腐植土に原因があるという説が有力らしい。すなわち、シラビソが成長して風当たりが強くなり、大きく幹が揺すられた結果、浅い腐植土に張った根は浮き上がり、細い根が切れてしまう。その結果、水分の吸収ができなくなるため、立ち枯れていくというものである。そういえば、立ち枯れた木の高さはおおよそ10mぐらいにとどまっている。将軍平の向こうに蓼科山が見え始めた(8時01分、写真右)。
8時07分、蓼科山荘に到着(写真左)。ここには双子池ヒュッテにはなかった生ビールからアイスクリーム(しかも3種類)まである。こんな看板を見ていると、つい手が出てしまいそうになる。ここで大休止してから、いよいよ蓼科山の本体に取り付くため出発(8時30分、写真右)。
蓼科山本体は溶岩円頂丘の急斜面である。ゴロゴの溶岩を、手も使って、しがみつくように直登する。やがて蓼科山荘が見下ろせるようになる(8時53分、写真左)。蓼科山荘から蓼科山を見上げた時、人が溶岩にしがみついているのが見えたが、ここのことらしい。山頂近くなって、ペンキで付けられたマークをはずさないように登る。「あと5分で頂上」と書かれた岩を過ぎると、山頂手前で左に巻きながら登山道を上る。
9時02分、蓼科山山頂ヒュッテに到着(写真左)。ランプの山小屋だが、ソーラーパネルと風力発電装置による浄化設備を備えている。そういえば、蓼科山荘もトイレはきれいだったが、この点では双子池ヒュッテは遅れをとっていた。山頂標識は目の前に見えているが、ここまでくればのんびりしようと、休憩ベンチでビールを飲む。冷たくて実においしかった。のどを潤してから、山頂へ向かう。山頂は広くて、ガスに巻かれないように赤ポールとペンキで指導してある。
9時16分、山頂到着。写真左は一等三角点。国土地理院の「点の記」によると、点名は「蓼科山」。所在地は長野県北佐久郡立科町大字芦田字蓼科5154番地となっている。写真右は山頂中央の噴火口。凹地の中央に蓼科神社が、その向こうに方位盤がある。
まだガスは上ってきているが、しばらくすると南八ヶ岳が見え始めた(写真左)。左から赤岳、そして阿弥陀岳である。山頂には次々と登山者が到着して、思い思いの岩を見つけてはそこで休んだり、昼寝をしたり、眺望を楽しんだりしていた(写真右)。それにしても、高い雲はもう秋の雲だ。
時折、中央アルプスらしい山も見え隠れしたが、何と言っても南八ヶ岳の展望に満足(写真左)。さて、次々と登山者が登って来るが、どうやら七合目から蓼科山荘へ登る人が最も多く、その次は大河原峠から登る人が多いらしい。これから下山路に考えた女神茶屋からの道は、急登かつ道のりが長いことで、最も大変な道とされているようだ。同行者が事前にネットで調べた時刻表によると、ピラタス経由茅野駅行きは12時30分となっている。1日2本だから、それを逃すとタクシーを呼ばなければならない。何とか間に合うようにと、9時52分出発。蓼科山頂ヒュッテまで戻って、女神茶屋への登山道を下る。ゴロゴロの溶岩に鎖が付けられた道を、苦労して下りる。何と言っても円錐形の溶岩円頂丘に一直線に登山道がつけられているから、大変である。
やがて樹林帯に入ると、北八ヶ岳山麓が見え始めた。この道を登ってくる人は、誰もが大変そうだ。下山していくと溶岩の岩塊に「120」と書かれていることに気づいた。山頂まで丁度標高差にして120mの地点だったので、そのことかとも思ったが、どうやら女神茶屋からの標準タイムが書かれているらしい。やがて「90」というのも現れた。自分のペースが標準タイムに比べてどれぐらいなのかを目安にしようというもののようだ。山頂が全く望めず、地形的にも現在の位置がつかみにくいことに配慮したものらしい。第一の長い急坂を下ると、傾斜のなだらかな溶岩台地に出た(10時52分、写真右)。ここを過ぎると、最初ほどの長さではないが、傾斜は変わらず急な第二の急坂を下る。
笹原で覆われた溶岩台地の緩斜面を歩いた後に、笹原で足下も見えにくい第三の急坂を下る(11時41分、写真左)。距離は最も短いが、急坂に加えて足下が見えないため、結構気を遣う。しばらくして傾斜がなだらかになった後に、女神茶屋に到着した(12時03分)。
女神茶屋前にバス停はあって、汗と泥で汚れたまま休む。しばらくすると、次々とタクシーがやってきた(写真右)。どうやら、12時30分のバスに乗り遅れた客を目当てにしているらしい。こんなにタクシーがやってくるのなら、乗り遅れたらどうしようなどと考える必要もなかった。女神茶屋近くには駐車スペースもあって、登山者はここに車をとめることができる。また、女神茶屋に泊まることもできるらしい。定刻通り、12時30分のバスに乗ってピラタスに戻った。あまりにも汚れていたので、座席に座ることは遠慮したが、タクシーだったらどうなるのだろう。意外と会社が心得ていて、シートにはビニルが敷いてあるのかも知れない。
ピラタス蓼科ロープウエイ山麓駅は昨日と同じ観光地だった。ここでザックをおろして月見うどんを食べる。熱いうどんがおいしかった。ピラタスの向こうには北横岳が(写真左)、そして蓼科山(写真右)。
※八ヶ岳の火山活動については鮮新世末の約200万年前に始まったと考えられている。富士山の姿もなかった頃である。活動を始めた古蓼科火山は成層火山に発達した後に大崩壊し、活動は古麦草火山へと移る。長い休止期を経て、南八ヶ岳で火山活動が始まり、約20万年前には古阿弥陀岳火山は3000mを超す成層火山に発達したと考えられている。やがて古阿弥陀岳火山は大崩壊を起こし、馬蹄形カルデラ内では権現岳・網笠山などが活動を始める。第四紀に入り更新世(約160年前〜1万年前)に入ると、溶岩円頂丘の活動が主体となった火山活動は、南八ヶ岳から北八ヶ岳・蓼科山へと移って、今日見られるような八ヶ岳連峰を形作ったと考えられている(熊井久雄「復元図で見る八ヶ岳火山の一生」『アーバンクボタ』第33号所収、1994年)。今回歩いた中では、双子山はなだらかな溶岩丘だが、八ヶ岳の東西の火山列のうち東側の古八ヶ岳期の火山列に入る。長い休止期を経て徐々に北へと移動した火山活動は、西側の溶岩円頂丘を中心とする新八ヶ岳期の火山列を形成して、蓼科山で大きな火山活動は終わる。北八ヶ岳に見られる多くの湖沼は東西二列の火山列の間に位置するということになる。このような地質年代上のスケールから八ヶ岳を見るとき、富士山と背比べをして負けた富士山が八ヶ岳の頭を打ち付けて八つに砕けたという伝説が有名だが、古蓼科火山や古阿弥陀岳火山がいずれも大崩壊したと考えられていることと合わせ考えた時、この伝説が妙に真実味を帯びてくるから不思議だ。地質時代については不勉強もいいところだが、今回こんなことも少し勉強する機会を与えられたことに感謝している。