白馬三山(鑓ヶ岳2903.11m)
2005年8月4〜5日
長野県白馬村猿倉より


レリーフの等高線は20m。スケールの単位はm。

(画像のうちいくつかはクリックすると拡大画像を表示します。戻るときはブラウザの「戻る」から。)

第1日(猿倉〜白馬大雪渓〜白馬岳頂上宿舎)

白馬三山への挑戦は同行者は3度目、私は4度目の挑戦となったこの日。大雪渓の渋滞もないであろう木曜日に、また2度目の梅雨明けといえるような好天をねらっての登山。前日深夜到着したアルペンロッジ岳都さんに、いつものように猿倉まで送っていただく。平日の6時前であれば空いているだろうという予想に反して、猿倉はごった返していた(5時58分、写真左)。観光バスで到着したツアー登山客のようだ。登山届けを提出すると、今日は問題ないが明日の行程が大変なので朝食は小屋でとらずに出た方が良いとのアドバイス。これは覚悟しなくちゃ。6時少し過ぎに猿倉を出発。予定通りに行けば、ここへ下り立った時に万歳三唱となるはずの鑓温泉登山道への分岐(写真右)を見送る(6時18分)。
御殿場でヤマホトトギスの群落に遭遇(写真左)。白馬尻手前で大雪渓が見えてきた(7時00分、写真右)。この前来た時と比べて、雪渓は小さくなってはいるものの、例年に比べて雪の量はまだ豊富なようだ。
7時09分、白馬館の白馬尻小屋に到着(写真左)。小屋前のキヌガサソウの見事な群落も健在である(写真右)。
小屋横の広場から大雪渓を見る(写真左)。大雪渓を登っていく登山者がアリのように見える。ここで休憩と水の補給をすませた登山者が次々と大雪渓へ向かっていく(写真右)。我々も水を補給して、7時32分に出発。
大雪渓への取り付きは前回の登山時と比べて奥へと後退していたが、それでも小屋から10分あまりの地点(7時09分、写真左)。長い雪渓歩きとなりそうだ。雪に埋もれていたケルン周辺は河原となっていた(写真右)。
今回もアイゼンは12本爪を持参。ここでアイゼンを付けて、大雪渓を登る。スプーンカットされているので、アイゼンなしでも問題はなさそう。今日はアリの行列のような登山者の列はなく、自分のペースでゆっくりと登ることができ、やれやれである。加えて12本爪アイゼンなので、スプーンカットに歩幅を規制されることもなく、行列とは無関係にベンガラに沿いながら自分の歩幅で登ることができる。
大雪渓上部ではいつものように冷気によるガスが漂っていた(8時56分、写真左)。この辺りから傾斜が急になる。軽アイゼンの場合、どうしてもつま先で雪面を蹴る形となり、滑って転倒しそうになる人もいた。これだけ斜度があればやはり4本爪以上の方が楽かも知れない。大雪渓の終わりは、前回とほぼ同じ地点。杓子尾根から崩壊した礫が覆っている中を登って、夏道へ取り付く(9時59分、写真右)。雪渓歩きは、マイペースで約3時間だった。
アイゼンを外した人たちがそのまま休んでいたので、グリーンパトロールが「ここでは休憩してはいけません。ここは落石があって危険です。」と盛んに呼びかけていた。雪渓を歩き終わって、みんなやれやれといった所だ。確かに間近の杓子尾根から崩れ落ちる岩の音がひっきりなしにしている。登山道は一見すると圏谷地形中央の尾根についているのように見えるが、実はここに堆積している土砂には珪長岩がたくさん含まれていて、これらは杓子岳北の杓子尾根や天狗菱方面からもたらされた崩積性堆積物であることがわかる。崩れた土砂が谷を埋積し、それが水流の働きで浸食されて雪と共に大雪渓へと押し流すと同時に左右が谷状に浸食され、安定したのも束の間、再び崩れるという繰り返しの地形形成の歴史が読み取れる。短期的にだけでなく、長期的にも危険な場所には違いない。初めて来たという人があとどれぐらいかと尋ねてきたので、「ここまでは序の口でここからが一番大変な核心部分。」と話すと、途方にくれていた。そういえば、地形図を開いて登山道を確認する人は見あたらない。みんな行列の後を追って、ただ黙々と歩いている。
ガレ場の夏道を登って草付きの葱平に到着すると、そこは一面植物の世界だった。杓子尾根から崩壊した礫が覆っている夏道取り付きの部分と違って、草付きとなっていることは、先の部分より比較的安定していることを物語っている。写真左はこの前も対面したミヤマクワガタ。写真右はミヤマアワガエリ(深山粟返)の穂。猫じゃらしみたいだ。
たくさんの花の周りに蝶が飛んでいた。写真左は登山者の腕にとまったまま動こうとしなかったアサギマダラ(浅黄斑)。登山者にとまったまま一緒に歩いていた。アサギマダラは上昇気流に乗って稜線近くまで飛んできて、秋になると里へ下り、温暖地まで何百キロも渡りをするらしい。写真右はオタカラコウ(雄宝香)。
ここからしばらくは葱平に咲く植物の紹介。写真左はシナノオトギリ(信濃弟切)。右はハクサンフウロ(白山風露)。たくさん咲いていた。団体さんに先を譲って、マクロレンズと三脚を使ってじっくりと撮影。
写真左はミソガワソウ(味噌川草)。木曽川支流の味噌川にちなむ名という。右はチシマギキョウ(千島桔梗)。花弁に白い毛が生えている。ここでは掲載していないが、毛のないイワギキョウ(岩桔梗)も見られた。
写真左はミヤマオトコヨモギ(深山男蓬)。つぼみのように見えるが、小さな花が集まって咲いている。右はテガタチドリ(手形千鳥)。ランの仲間で、一つ一つの花が鳥が翼を広げたような形をしている。
写真左はコカラマツ(小唐松)。別名が大唐松と言うらしく、変な感じだ。右はミヤマアケボノソウ(深山曙草)。濃い紫色の花で、一見すると花期が終わってしまったかのように見える。
写真左はキバナノカワラマツバ(黄花河原松葉)。右はタカネナデシコ(高嶺撫子)。
葱平上部の登山道横にはクレバスが入った雪渓が横たわっていた(12時04分、写真左)。まだ雪の量は豊富だ。雪解け後に咲き始めるウルップソウがこの付近に残っていた(写真右)。稜線上が花期を終えていたのに対して、遅くまで雪渓が残っていたためだろうか、まだ盛りと言った感じだった。もうウルップソウは見えないものとあきらめていただけに、うれしかった。南八ツの横岳とこの前の白馬岳に続いて、今年3回目である。幸運に感謝。
この辺りからシナノキンバイ(信濃金梅)をよく見かけるようになった(写真左)。まさに金色のような、鮮やかな黄色。ハクサンイチゲ(白山一花)もまだまだたくさん咲いていた(写真右)。ちなみに白い花弁のように見えるものは萼片。
7月にはアイゼンをつけてトラバースした小雪渓を見下ろす(12時36分、写真左)。小雪渓は小さくなって、もはや夏道へと登山道は交替している。ガスで隠れていた杓子尾根も頭を覗かせた。避難小屋はたくさんの登山者が体を休めていた(12時37分、写真右)。グリーンパトロールが案内していたが、休憩する登山者をせかすようなことは、今日はない。昨年ここを登った時のことだった。「早く上がってください!避難小屋では泊まれませんから、歩ける人は早く歩いてください!」と雷鳴とどろく中を必死で声をかけていた。あの時は、誰もが歩きたかったのだが、誰もが歩けなかったのだった。
避難小屋を少し登った所から見た杓子岳(12時42分、写真左)。白馬岳をこよなく愛し、調査研究のため10数回も白馬岳に登った志村烏嶺が、この写真とほぼ同じ山を縦位置で撮影したのは明治38年8月のことだった。この時志村は葱平で野宿し、杓子岳をカメラに収めた。この写真はウエストンによってイギリスの山岳会誌『アルパインジャーナル』に掲載されることとなり、日本の山岳写真が外国で掲載されたのはこれが最初のことだった。そんなことを考えたりしていると、いろんな思いが頭をよぎってくる。写真右は水場(13時00分)。みんな猛暑に耐えかねて、水を汲んでは大休止。こちらもコップで飲んだ後にペットボトルに補給。冷たくておいしかった。そうこうしているうちに、空模様が怪しくなって、少しばかりの雨が落ちてきた。カッパを着ようかどうしようかと迷っているうちに、知らぬ間に雨はあがってしまった。これはついている。
雨はもう降らないだろうと勝手に決め込んで、相変わらずの花三昧。写真左はミヤマダイモンジソウ(深山大文字草)。花弁の一枚だけ長いのがかわいい。これまで気がつかなかったが、岩肌に「お花畑」と書かれているではないか(13時18分、写真右)。
お花畑に咲くクルマユリ(車百合)。イワオウギ(岩黄耆)が一面に咲いている。この辺りにはもうシロウマオウギは見られないようだ。
お花畑に咲くタカネコウリンカ(高嶺高輪花、写真左)。右はタカネシオガマ(高嶺塩竃)。ミヤマシオガマ、ヨツバシオガマの次に咲き始めるシオガマは、最も遅く咲き始めるオニシオガマで終わる。4種類のシオガマの中で、最も厳しい場所に咲き、その花は文字通りの「高嶺の花」だという。
写真左はヨツバシオガマ(四葉塩竃)。まもなく花期を終えようとしていた。写真右はミヤマオダマキ(深山苧環)。こちらはまだまだ健在。
ガスの彼方にずっと見えていた村営白馬岳頂上宿舎がようやく近づいてきた。しかし最後の最後のしんどさは、柏原新道を登った時の種池小屋が見えたときと同じ。だからなのだろう、岩に「ガンバレ」と黄書きしてある(14時00分、写真左)。大体、「ガンバレ」があること自体これまで気づかなかったのだから、いかに下を向いてしんどさいっぱいで歩いていたかがわかろうというもの。14時16分、村営宿舎に到着(写真右)。天候が悪いせいか、この前の時のように外で休んでいる人は少ないようだ。ザックをかついだまま、例によってレストランに直行して生ビールと牛肉コロッケとなったことは言うまでもない。
※今回の山行では同行者所有のデジタル一眼レフNIKON D70sを借用、それに交換レンズと一眼レフ用の三脚を持参した。これまではその重量に躊躇して、高い山では敬遠してきた。第一、軽くなったとはいえ一眼レフを首から提げて歩こうものなら、首がしめつけられてしまう。これを克服するためのグッズがニコンから提供されている「マルチ・ジョイント・ストラップ」。ザックから左右二本のストラップで支えるため首には負担にならない。先だっての白馬岳登山で、デジタル一眼としては最重量級のNIKON D2Xでこのストラップを使用している人から教えてもらったものである。たしかに首には負担にはならないが、それだけの重量を抱えることにはかわりがないので、行動性とトレードオフとなることは覚悟しなければならない。それにしても大きなカメラを持って来ている人には、ただただ脱帽。
※今回も白馬山荘を敬遠して村営宿舎。夕食はリッチにレストランでのサーロインステーキのディナーセット。顔なじみとなってしまった小屋のレストラン担当の人が、「新しいソースを作ってみましたので、よかったら試してみてください。」と2種類のソースをわざわざ用意してくれた。醤油味で山葵が刻んであった新しいソースがとてもおいしかった。こちらが定番になるといいなぁと思ったりした。この日の部屋は、定員48名の所、3人組が1組、小学生ぐらいからの子ども3人を含む家族5人と、我々2人の計10人だった。登ってくる途中で、グリーンパトロールが「今日は400人。うち、白馬山荘が300人、村営宿舎が100人。」と言っていたが、夕食が130人余りだったので、ドンピシャというべきだろう。平日とあって、空いていた。
※翌朝の朝食は弁当にしてもらって、5時に出発と決め、早めに就寝した。この前の時のように、土砂降りの雨が降っていたらどうしようと思ったが、夜半に満天の星空となった。深夜1時に目が覚めて外に出てみると、満天の星空に白馬村の町明かりがくっきりと見え、白馬岳山頂が浮かび上がっていた。まるで絵本を見ているみたいだ。ケーブルレリーズと予備のバッテリーがあったならば、躊躇せずカメラを構えたのだが、残念。まあ、欲張ってはだめということかな。このとき、年配の夫婦連れ(着くなり個室で寝てしまったらしく、レストランの予約時刻に来ないため、係の人が呼びに行っていた)が、もう出発の準備をしている。「こんな時間からどこへ行くのですか。」と聞くと、「もうすぐ4時だからあわてないように支度をしている。」とのこと。まだ1時ですよと言うと、腕時計を見直してびっくりしていた。人の気配のしない個室だとこんなハプニングもあるのか、と妙に感心してこちらも布団に入り直したのだった。

第2日(白馬岳頂上宿舎〜鑓ヶ岳〜大出原〜鑓温泉〜猿倉)

今朝の朝食は弁当でお願いしてあったので、4時30頃に部屋で食べる。快晴で、今日は暑くなりそうだ。5時05分、頂上宿舎を出発。稜線に出て白馬岳頂上方面を見送る(写真左)。写真右は朝日ほ浴び始めた旭岳(5時09分)。
主稜線から離山と丸山、その手前にテント場を見る(写真左)。丸山はもう朝日がいっぱいだ。その向こうの杓子岳、鑓ヶ岳も迫ってくる。今日はこれらの山々を越えていかねばならないのだ。丸山へさしかかると、ご来光を見終えた人が宿舎に戻ろうとしていた(5時10分、写真右)。昨年丸山から白馬岳のすぐ横から出る日の出を見たことは記憶に新しい。
5時22分、丸山から朝日がまぶしい白馬岳を見る(写真左)。写真右は同じく丸山から杓子岳と鑓ヶ岳を見た所。稜線が朝日によって少しずつ照らされ始めている。
丸山を下りようとしていたら、登山道に1羽のイワヒバリが岩の上に乗ったり、飛び移ったりしていた(写真左)。あまり逃げようとはしなかったが、岩の上に乗って朝日を見ているイワヒバリの目が光っていた。秋には低山に移動し、5月には高山へ戻って繁殖するという。杓子岳と鑓ヶ岳が少しずつ迫ってきた(5時34分、写真右)。杓子岳の上に何人もの人がいるのが見える。杓子岳でご来光という手もあるのかと思ったが、今日の行程を考えると巻き道を利用するのが無難。
白馬岳を振り返って(5時47分、写真左)。信濃側に大きく崩れる非対称山稜の特徴がよくわかる。いよいよ杓子岳が眼前に迫ってきた(6時06分、写真右)。まだ朝早いはずなのに、もう汗びっしょり。先が思いやられそう。
杓子岳の巻き道を歩いていると、コマクサが咲いているのに気づいた(写真左)。写真右は杓子岳の巻き道から見た白馬岳(右)と旭岳(左)。
杓子岳の巻き道を過ぎて、鑓ヶ岳との鞍部に着いた(6時29分、写真左)。杓子沢上部の圏谷が手に取るようにわかる。ここから鑓ヶ岳への急登。珍しいことにこの斜面には石灰岩の露頭があり、白馬岳周辺の形成過程を物語っていて興味深い。急登はほんのひと登りで、ざらざらの登山道へと変わっていった(7時12分、写真右)。鑓ヶ岳山頂までに軽装備のたくさんの人とすれ違った。どうやら白馬岳からピストンしてきた人たちのようだ。白馬三山縦走は鑓温泉へ下りるか、不帰ノ險を越すかしかないと思っていたが、そういう方法もあることに気づいた。
鑓ヶ岳山頂に到着したのが7時22分だった(写真左)。あまりの眺望の良さに大感激。たくさんの人がここで休んでいた。ここからしばらくは鑓ヶ岳山頂からの眺望の紹介。写真右は天狗越しに見た後立山連峰と剣岳・立山。晴れているとはいっても夏のことで、剣岳が霞んだ空気の上に浮かんでいるみたいだ。ところでかつて鑓ヶ岳山頂に大日如来座像が安置されたと伝えられている。立山連峰と違って、この白馬三山も含めた後立山連峰は宗教的な開山とは関係がないようだ。そんな中で現存しない伝承ではあっても、どのような経緯でここに置かれていたのか、興味は尽きない。八方尾根などでは大風から村を守るための風切地蔵が幕末に祀られているから、これらと関係するものだろうか。
写真左は天狗越しに見た後立山連峰。唐松岳、五竜岳、鹿島槍ヶ岳の山並みと、その右に蓮華岳と針ノ木岳が見える。遠くに槍ヶ岳と穂高連峰を望むことができる。写真右は剣岳と立山。まだまだ雪が残っている。ところで天狗山荘がすぐ下に見える。3連休に猿倉から天狗山荘まで登って、不帰ノ險を越そうとして悪天候で中止。今度は大名登山方式で白馬岳に1泊、次に天狗山荘で1泊とも思ったが、これでは近すぎて不可。この分なら不帰ノ險を越してしまうことも、時間的には可能だ、と考えたりした。
写真左は杓子岳と白馬岳、その右に小蓮華岳、反対側に旭岳を望む。山岳写真家の菊池哲男さんが、ほぼ同じ地点から夕日を浴びた山々を撮影している。白馬館のポスターに採用されていて菊池さんの代表作だが、下に雲海を従えて山々を夕日が照らすという光景はまず見られないものだ。もっとも同じ所に所に立っていたとしても雲泥の差だろうが。山頂には三等三角点があるが、国土地理院の「点の記」にあるように柱石は毀損していて、原位置をとどめていない(写真右)。所在地は長野県北安曇郡白馬村で、標高は2903.11mとなっている。なお、点名は「鎗ヶ岳」という表記が当てられている。
少しばかり腹ごしらえをして、7時48分に山頂を出発。鑓温泉への分岐を目指して下る(写真左)。まもなく剣岳が稜線に隠れようとしている(写真右)
鑓ヶ岳山頂を振り返る(7時58分、写真左)。こちら側から見た鑓ヶ岳は、その名からは想像できない砂山のような印象だ。まもなく分岐(写真右)。鑓温泉方面へ下山する人もあれば、これから不帰ノ險を越して八方尾根を下りるという人もある。この時間なら行けてしまうのかもしれない。
分岐付近で見つけたミヤマウイキョウ(深山茴香、写真左)。砂礫地に単独で咲く姿は、コマクサを連想させ、高山植物らしい雰囲気を持っている。写真右は大出原へ下山中に鑓ヶ岳を見上げた所(8時21分)。
しばらく下ると、大出原に着いた。大出原はまさしく花いっぱいだった。同行者によると昨日大雪渓でグリーンパトロールの人が大出原にはこことは違う花が見られますよと、話してくれたという。写真左はコバイケイソウ(小梅尅吹jの群落。まだまだ新鮮だ。写真右はミヤマキンバイ(深山金梅)とハクサンコザクラ(白山小桜)の群落。コバイケイソウは昨年が開花の当たり年だったが、今年は昨年以上に多くて、2年連続の当たり年となっている。開花にはかなりのエネルギーを必要とするらしく、数年に一度しかこれだけの開花は見られないという。厳しかったこの冬が、敢えて無理をしての開花をさせているのだろうか。
これから先の行程が気にはなるが、ここは三脚を据えてマクロレンズで撮影。写真左はハクサンコザクラのクローズアップ。写真右からどれほどの群落か分かっていただけるだろうか。大出原というとクルマユリの大群落のイメージがあるが、ここにはまた違った高山植物たちの姿があった。
写真左はアオノツガザクラ(青栂桜)。写真右はツガザクラ(栂桜)。
大出原から鑓ヶ岳を見上げる(8時45分、写真左)。北ア遭対協による看板越しに鑓ヶ岳を見上げる。鑓温泉を過ぎると、北ア遭対協の案内看板には鑓温泉−猿倉間の距離が5つの点で記されていて、現在位置の目安とすることができるようになっている。この看板を目にする度に、まだ歩かなければいけないのかと、大いにがっくりさせられることとなるのである。大出原を過ぎると硫黄の臭いが目立つようになった。鑓温泉手前の岩場を迎えるに当たって、一眼レフはザックにしまい込む。この先はコンパクトデジタルカメラによる画像。鑓温泉へ下りる岩場はすべりやすくてやっかいな所だった。鎖がよく整備されてはいるが、つるつるした岩肌が本当に滑りやすくて緊張する場面だ。写真右は9時49分。
写真左は水の流れる岩場とその向こうの岩峰(9時51分)。鎖の付けられた岩場を振り返って見上げる(9時52分、写真右)。
普通下るのは楽だというイメージがあるが、とんでもない。予想以上に緊張が強いられた後にようやく鑓温泉小屋が見えてきた(10時08分、写真左)。ところで鑓温泉へ至る登山道で、岩場からの滑落と同時に岩場を過ぎてから鑓温泉小屋手前での転倒と、右の雪渓への滑落が頻発しているという。何でもないような所だが、体が疲れていることを考えると何でもない石に躓いてしまうということなのだろう。10時18分、心底疲れて鑓温泉小屋に到着(写真右)。登山道は小屋と小屋の間を通っていて、この売店を目の前とすることになる。売店前でザックをおろして座り込む。汗で服はもとよりズボンまでびしょびしょ。売店でコーラを見つけて買う。水で冷やされてはいたが、水源が遠いため冷たいとはいえないが、コーラがあるだけでも贅沢というもの。何かを腹に入れたいが、口が受け付けない。缶ジュースが並んでいる中をよく見ると、フルーツ缶詰があった。箸をもらって食べたが、これはおいしかった。みんなここにこんなものがあるとは気づかないんじゃないかな。昨晩は70〜80人ぐらいの宿泊客、今日は予約だけで170人ということだった。今日は布団1枚に1人とはいかないらしい。後で下山してきた人が今晩泊まれるだろうかと聞いていたが、結局はあきらめて下山するらしかった。
この汗まみれの服を見ると温泉に入る気にもならずに、11時少し前に出発することにした。写真右は鑓温泉小屋を振り返って。女性用の露天風呂は覆いがあったが、男性用は登山道に面していた。山の本でよく見る写真は上から見下ろしたものなので、下からこんなによく見えるとは思いもしなかった。風呂に入っている人に温度を聞いてみると、熱いといっていた。流れ出している水は当然のことながらお湯である。
鑓温泉を過ぎて、4つの谷を渡る。最初の鑓沢には雪渓が残っていたが、クレバスが入っているため、一旦下に下がって、再び雪渓中央を登るようにベンガラで誘導してあった(11時27分、写真左)。雪渓から鑓沢を見上げる(11時42分、写真右)。
いまにも石が落ちてきそうな落石沢を過ぎて、行く手の登山道を見ると、延々と山腹を巻いているのがわかる。登山道を見るだけでうんざりしてしまう(11時55分、写真左)。おまけに登山道は6月の大雨のおかげで随分荒れていた。本来の登山道が崩落したために高巻き道のように付け直されていたり、随所にロープが張られていたりして、そこかしこでアルバイトを強いられた。杓子沢で水を補給。冷たい水がおいしかった。それにしても暑い。風が全くないため、尋常でない暑さが応える。高巻き道から鑓温泉方面を振り返る(12時38分、写真右)。地形図では表現されない小さな登りや下りがたくさんあって、この道を登りで使うのは大変だ。でも団体さんが結構登ってくる。
小日向のコル手前の大岩で登ってくる団体さんとすれ違った。27人の団体さんだったが、岩一つ越すのも大変そうだった。大岩を越して、ロープが下がっている急登を登り切った「雷岩」で大休止(13時時50分、写真左)。ここで休んでいると、北ア遭対協の常駐隊4人が白馬岳からやってきた。みんな全身汗だらけだった。今年の事故等はどうかと話していると、大出原で足が痛くて男性1人が動けなくなっていると無線が入ってきた。ここから戻るのかとびっくりしたが、天狗山荘から隊員が向かうとのやりとりだった。大変な仕事だ。小日向のコル手前でシナノナデシコが咲いていた(写真右)。
雷岩から小日向のコルまでは一息だった。小日向のコルに着いたのが14時21分。写真左は小日向のコルの池糖に咲くワタスゲ(綿菅)。ここからジグザグに道を下ると、常駐隊に教えてもらった水場があった。そこで幾組もの登山者が大休止。もう登山道の荒れはないかと思ったら、ここから先も結構やっかいな道だった。猿倉台地まで山腹の道を歩いて、猿倉台地からは長走沢に沿ってまっすぐ延々と歩く。ほとんど水平のような道が、いい加減うんざりした頃にやや傾斜が急な下りとなると、やがて林道(砂防作業道)へ出た(16時55分、写真右)。お約束の万歳三唱で、ここからあっという間に猿倉荘へ下り立った。猿倉では山から下りてきた人、明日山に登る人が思い思いにビール、かき氷とくつろいでいた。こちらはかき氷。まさに夢見心地だった。
※2日目の行程は全身汗まみれになるほど暑くて、心底疲れた。大出原まではなんということもなく、鑓温泉までも岩場はあるもののさほどでもなかった。問題は鑓温泉から小日向のコル(双子岩)間だった。本文にも書いたように、6月の大雨で登山道が荒れ、至る所で登山道の路肩が崩れていた。大きく崩れた所は高巻き道へと迂回したりして、とてもガイドブック通りのタイムで歩けるとは思えなかった。その道を登りに使うグループといくつもすれ違ったが、鑓温泉泊まりだからがんばれるというものだろう。3連休に計画した天狗山荘までというのは、ちょっと無理な話だった。今回、2日目の行程が長い上に、一眼レフと一眼レフ用の三脚も欲張ったものだから荷の重さは大変で、これまでの山行で1、2を争うほどの汗だらけ、疲労困憊の体だった。アルペンロッジ岳都さんへ着いてから、ビール、夕食もそこそこに横になるほどだった。
※天候は2日間を通して申し分なかった。苦労して一眼レフを持って上がったかいがあったというもの。2日間で400カット程の撮影枚数となった。すべてRaw+Jpegで撮っているため、データ量はかなりのものとなったが、ストレージとして持参したエプソンのP2000が効果を発揮した。その一部は公開したので、おわかりいただけると思う。
※さて苦労して下った鑓温泉の道だが、南股川を上って鑓温泉を経由して主稜線へ出る道は、江戸時代には既に硫黄を採る道として使われていたらしい。明治9年に竹樋をもって鑓温泉から二股までの10Kmほどを引き湯しようという計画が実行されたが、その年の11月8日新雪雪崩によって小屋の内外にいた53人中23人が死亡するという遭難事故が起き、計画は中止されるに至った。その後、大正のはじめまで細野が持っていた鑓温泉の権利は昭和6年には白馬館が取得、白馬館が計画した現在の登山ルートが開かれた。しかし、昭和10年代まではこれまで通り南股川沿いに下る道が利用されていたという。鑓温泉は雪崩の常襲地であるため、現在でも白馬館により夏場だけ仮設の小屋が設けられている。北ア遭対協の常駐隊によると、鑓温泉〜小日向のコル間が崩れるのは毎年のことだという。
※本HPのうち、第1日目を書き終えたのが2005年8月10日だった。翌11日7時半頃に白馬大雪渓で土砂崩落事故が発生し、少なくとも2人が死傷したという報に接した。場所は葱平下部ということだったが、今回の登山ルート上での崩落事故は防ぎようがない。もし自分がその時その場にいたら確実に巻き込まれていたと思う。ご冥福をお祈りしたい。
 翌12日になって新聞紙上で大雪渓上部から撮影された崩落状況の写真が公開された。新聞やネットに公開された写真から見る限りなので詳しいことはわからないが、写真に写っている植生から崩落箇所を判断して、前回の7月22日に登山した時の画像に書き加えてみた。現地で確認したわけではないので、あくまでも個人的な推定に過ぎない。登山道が再開されるまでには時間がかかるだろうが、本HPの第1日目に記述した通り、この地点が危険な箇所であることは変わりないと思うので、専門家による十分な検討が行われた後の再開を望みたいと思う。なお、千葉大学の苅谷愛彦氏(自然地理学、地形学、第四紀学)によって白馬大雪渓落石事故関係の資料が掲載されている。暫定的ではあるが検討資料も掲載されている(20050813)。
※白馬村から8月13日に「8月14日6時をもって大雪渓ルート再開」が発表された。白馬村観光局の公式HPには崩落現場付近の航空写真が公開され、今回の土砂流路と既存の登山道、付けなおした登山道が図示されている。これによると、土砂流出の道は2本あったことになる(ただし、航空写真自体は既存のものか?)。前掲の7月22日撮影の画像と今回図示された航空写真を照合して、崩落推定ルート画像を1枚追加した(20050814)。
※千葉大学苅谷愛彦氏他による、白馬岳・大雪渓葱平落石現地調査速報が公開された。8月23日時点での暫定的なものとのことであるが、現地調査に基づいて詳細な検討が加えられている。大雪渓を通過し、天狗菱を仰ぎ見たことのある者にとっては、実に驚くべきものである。ぜひご覧いただきたい(20050823)。


スライドショウはこちら