山本山(324.4m)〜古保利
2005年5月3日
滋賀県湖北町山本より

レリーフの等高線は20m。スケールの単位はm。

昨年秋のクマ騒動は山本山にも及んだ。もともと山本山にクマがいることは知られたことだが、それが里にまで下りて来たのではかなわないと、昨秋断念した山である。山本山へ1年ぶりのハイキングは、昨秋の計画通り山本から古保利への縦走ハイキング。賤ヶ岳までの半分にも満たない距離だが、なかなか歩きがいがありそうだ。9時46分、朝日小学校横の駐車場に車をとめて出発(写真左)。しばらく歩いてから山本山山頂まではかつてレポートした通りのブルドーザーでつけられた無惨な道。道沿いにイベントによる植樹が見られたが、もっと大切なことを考えねばならないように思う。写真右は山本山城の「三の丸」と呼ばれる曲輪に設けられた土塁。ブルドーザーで破壊されている。
10時28分、山頂に着く(写真左)。この付近一帯も公園化による遺構の破壊が著しい。昨年の台風のせいか、ずいぶん倒木が目立った。写真右は琵琶湖と竹生島を遠望する。
さてしばらく休憩してから、山本山城の主郭を見学。二等三角点は主郭をめぐる土塁の一角に埋設されている(写真左)。写真右は土塁上から主郭内部を見た所。昨年訪れたのはもう少し時期が遅かったため草が覆っていたが、今日はわかりやすい。源平合戦時の築城と伝えられる山本山城だが、大規模な土塁は現存する遺構が戦国時代のものであることを物語っている。おそらく姉川合戦後で大敗北を喫した浅井氏が、再度の信長の侵攻に備えて大改修を行わせたと考えるのが自然だろう。
主郭見学後は尾根筋を北へとたどる。山本山城の大手筋はよくわからないが、かつて山本山の西・南・東は琵琶湖がめぐっていて、琵琶湖に半島状に突き出すような形になっていたと考えられる。加えてこの三方向は急峻な自然地形を要害として利用していて、固い防御となっている。これに対して北へ続く尾根筋は山本山城のアキレス腱で、これを防ぐために幾状もの堀切と竪堀、それに土塁を配した曲輪を連ねている。堀切は写真左のような土橋を持っている。土橋は細くて、人1人が通過するのがやっと。深くて曲輪への急な切り崖は戦国時代の所産であることを物語っている。ところで山本山一帯ではイワカガミがたくさん咲いていた。南斜面ではもう遅いかな、といった感じだったが、北尾根では丁度見頃を迎えていた(写真右)。この冬の雪が多かったせいか、たくさん咲いていた。
しばらく北へ尾根を下って、山本山城の北端を確認すると、ここからは古保利古墳群を見学しながらのハイキング。ここまで来るとアップダウンはほとんどなく、次から次へと尾根に一直線に造営された古墳群が登場する(写真左)。盗掘跡がいくつも見られるが、全般に墳丘の遺存状態はよく、墳形はもとより墳丘の端や段築まではっきりと残っている。古墳群は円墳、方墳、前方後円墳、前方後方墳から成っているが、このうちすべての前方後円墳と前方後方墳には説明板が付けられている。しかし保存を前提としているため詳細分布調査と範囲確認のテストピットだけでは年代の決め手を欠き、どうしても外形寸法と主軸方向、前方部がバチ形に開くかどうかという説明だけとならざるを得ない。これだとハイキングに訪れた人たちには何のことかよくわからない。また円墳や方墳が多数つながっていることも説明板からは知ることができない。どこかで古墳群の全貌が説明された掲示板があるといいかもしれない、などと話しながら途中で昼食と昼寝。ハイキング道をふさいでごろごろしていると何人ものハイカーたちが早足で歩いていった。やはり賤ヶ岳から山本山までの縦走をする人が一般的なのかもしれない。13時43分、西野への峠道から下山(写真右)。古保利古墳群はこれで8割ほどを見学したことになる。昔ここから北は歩いているので、登山者の1人はほぼ全域を見学した計算だ。
下山すると、目の前に小谷山、その向こうに伊吹山がそびえていた(13時55分、写真左)。ここから丘陵の輪郭に沿って遊歩道を南へ進む。写真右は西野隧道跡。江戸時代に西野の湛水を琵琶湖へ排水するために苦労の末に穿たれた隧道。今でもノミの跡を見ることができる。
ついでに新しい隧道を通って琵琶湖へ出てみた(写真左)。知る人ぞ知る釣りの穴場らしく、たくさんの人がトンネルを通って訪れていた。トンネルを戻り、うんざりするほど長い道を山本へ戻る。この道は遊歩道として整備されたらしいが、イノシシ除けのための柵が設けられている。そのため、所々で檻を抜けなければならない(写真右)。そういえばなんだか檻の中を歩いているみたいだ。
写真左は帰路見つけたちょっといい場所(15時25分)。池に木道がつけられていて、後で聞いてみると「水すましの池」とか。ちょっと見たところ、ここが近江盆地の一角であることを忘れてしまいそうな場所である。15時29分、出発地点に到着(写真右)。
※紹介したコースは、山本山〜賤ヶ岳縦走路の一部である。いつか機会があればすべてを歩いてみたいコースだが、帰路を考えると車2台が必要となる。
※さて山本山〜古保利は中世城郭と古墳群を訪ねるハイキング道でもあり、長浜市の横山とちょっと似ているが、古墳群の規模は古保利古墳群が勝っている。古保利古墳群は全130基からなり、内訳は7基の前方後円墳、8基の前方後方墳、77基の円墳と38基の方墳で構成されている。古保利丘陵にほぼ一直線に築かれたこれらの古墳は、全体として6つのグループに分かれるようで、現地の説明板でもAからFの地区名と古墳番号が記されている。発生期の古墳群を中心とするが、中には後期古墳も含まれている。1999年に高月町教育委員会によって行われた範囲確認調査で、全長60mの前方後方墳B−6号墳(小松古墳)の後方部墳頂から土器廃棄土坑が検出され、大量の土器が出土している。築造時の祭祀に用いられた土器が、祭祀後に一括して破棄されたのだろう。東海系土器も伴出していて、古墳の被葬者と古墳築造にかかわった人々の姿が見えるようだ。土器の実年代は難しい所だが、3世紀中頃にまでさかのぼる可能性があり、畿内の最も古い古墳に並ぶ可能性もある。琵琶湖を見下ろす古保利丘陵は湖上交通を掌握した人々の象徴だったのだろうか。
※もう一つ附記。山本山城から北の丘陵、熊野付近に明らかな戦国期の城郭遺構が残されている。山本山城との関連など、改めて訪れた際に考えてみたいと思う。
※最後に、登山口は湖北町であるが、山本山〜古保利丘陵は高月町に属する山である。