佐和山(232.5m)・弁天山(196m)
2005年4月24日
滋賀県彦根市鳥居本より

レリーフの等高線は20m。スケールの単位はm。

今年3回目の佐和山。どうも何回か歩いてみないと気が済まないらしい。低山は新緑の季節に限ると、同行者のトレーニングを兼ねてのハイキングである。国道21号を走らせて、佐和山トンネル手前で農道横のわずかなスペースに車を止める。ここが「佐和山城大手口」に当たる、とされている。写真左は大手口を示す標識。10時20分出発。最初にここを訪れた時は、大手口北の尾根を遮二無二藪こぎをしながらよじ登った。今回はハイキング道を利用。佐和山トンネル横の歩道用の小さなトンネルをくぐって佐和山西に出る(写真右)。
トンネルをくぐった所に出現する現代の「金閣」「姫路城」などを横に見て、東山ハイキング道入り口に着く(10時37分、写真左)。しばらくして登山道にとりつくとまもなく稜線に出る(10時43分、写真右)。一旦ここから右に寄り道をして、法華丸と呼ばれる曲輪群を見学してから正規ルートに戻った。
本丸への登山道を登っていくと、彦根城とその背後に琵琶湖が見え始めた(写真左)。佐和山は低山といっても戦国の山城跡である。急登を強いられるのは当然といえば当然。あえぎながらしばらく登ると千貫井への分岐に至る。ここから千貫井へ寄り道。千貫井は山腹に湧出する井戸跡で、千貫に値すると称せられたことからその名がついたという。現在でも土塁状の高まりでわき水をためた池が見られる(11時12分、写真右)。この真上が山頂である。
再び本丸への登山道に戻って、両端を竪堀で防御した尾根の先端にある太鼓丸と呼ばれる曲輪群を見学。再び本丸への登山道に戻って、本丸部分を取り巻く帯曲輪への虎口を登ると、女郎谷の曲輪に出た(11時22分、写真左)。平坦によく削平された曲輪で、関ヶ原合戦の際の落城に際しての秘話を紹介する標柱が立てられている。女郎谷は各地の城跡に見られる地名でもある。ここから本丸への虎口の急登を登った所の虎口曲輪を東に歩くと、かつて本丸の一部であった算木積みの石垣隅部が残っていた(11時27分、写真右)。佐和山城の石垣は、関ヶ原合戦後に破却が行われて、彦根城にすべて転用されている。ここに残された石垣が唯一のものである。
本丸は新緑に覆われていた(11時30分、写真左)。本丸は佐和山城破却に際して徹底的に破壊され、本来の構造はよくわからない。周囲に石垣を用いた土塁を巡らせたものであったらしいことと、何カ所かの虎口が開いていたらしいことを伺うことはできそうだが、やはりよくわからない。その土塁跡に三角点が埋設されている(写真右)。国土地理院の「点の記」によると点名は「石ヶ崎」となっていて、所在地は「滋賀県彦根市古沢町石ヶ崎829番地」である。
佐和山は一面ミツバツツジが咲いていて、とてもきれいだった(写真左)。しばらく本丸跡で休憩の後、西の丸と呼ばれる遺構群を見学しながら、尾根を北へ下った。弁天山からの尾根と遮断する堀切を西へ下って、石田三成菩提寺の龍潭寺へ降りた。境内のシダレザクラがまだ花弁をたくさん残していた(12時08分、写真右)。
写真左は龍潭寺山門から参道を見下ろした所。新緑がまぶしいぐらいだ。参道前の広場で休憩していると、近江鉄道のボンネットバス「ご城下巡回バス」がやってきた(写真右)。何人もの人が乗っていた。
龍潭寺から北の自動車道を大洞弁財天まで登る(12時37分、写真左)。山門を額縁にして見下ろした彦根城が印象的だった。弁財天から再び登山道へ入って、弁天山まで登り返す。標高差はさほどでもないが、結構な急登を歩くと弁天山山頂に着いた(12時44分)。ここから道を南へとって、堀切まで戻ることになるが、いくつかのピークがある。その最後のピークで遅い昼食とする。ミツバツヅジに囲まれて、のんびりと休憩。この時期の低山ならではである。
昼食後尾根を南に降りると、佐和山城北端の堀切にもどった(13時51分)。堀切を東へ降りた所に水の手曲輪があるが、今回は割愛。しばらくして水田に残る土塁跡に出た(14時13分、写真右)。ここからもう一度佐和山へ向かって洞状地形の奥へ進む。
写真左は馬洗池。中央が土塁状の堰堤。佐和山城ゆかりの池と伝えられているが、案外その通りであったかもしれない。馬洗池を見学した後、車まで戻った。写真右は大手門北の土塁の隅部と外堀跡。石垣はないものの、予想以上によく残っていることに驚く。車へ戻ったのが14時45分だった。
※紹介したコースは、佐和山と弁天山を2極として8の字状に周回するコースである。主稜線ではたくさんのハイカーと出会ったが、東部分では今回も誰とも出会わなかった。8の字に周回する人は少ないらしいが、主稜線だけではもったいない山である。新緑のハイキングコースとして、広くお勧めできる。
※さて、石田三成に過ぎたものと言われた佐和山城は歴史に名高いが、破却されたこともあって実態はよくわかっていない。元亀元年に丹羽長秀が城主となった後は小田信長の近江における拠点的な城として佐和山城は用いられた。これ以前にも佐和山城は存在しているが、まず最初の改修がこの時に行われたと考えてよいだろう。信長の佐和山城利用は天正4年の安土城築城まで続き、その後、堀秀正、堀尾吉晴を経て天正18年(1590)石田三成が佐和山城城主となった。石田三成は佐和山城に再び大改修の手を加えた。「佐和山惣構普請」と呼ばれるこの改修はかなり大規模なものであったらしく、現在大手口とされる佐和山東だけでなく、西の松原内湖にも及んだと考えられている(中井均『近江の城』1997年)。確かに従来から指摘されているように、石田三成屋敷跡伝承は佐和山東の大手門内側ではなく、西側にある。東側の大手門内側にあったと考えられる城主の屋敷や重臣たちの屋敷を大手とする城下町が、松原内湖のある西側にまで広がって、惣構が佐和山西にまでも拡幅されたと考えるのが自然だろう。有名な百間橋はこのときに松原内湖にかけられている。慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の翌日、井伊直政らによって佐和山城は落城し、井伊氏は近江国を論功行賞によって18万石で佐和山城に入城した。直政死後、慶長8年から彦根城の築城が始まり、佐和山城からは石垣が運び出され、破却が進められた。現状を見る限り、とりわけ本丸が徹底的に破壊されているようで、江戸初期の破城の実態を伝えてくれている。
※さて、以上にように佐和山城を概観したが、現在残る遺構はいずれの時期のものだろうか。破壊し尽くされた本丸以外の遺構群は、戦国期の山城の特徴をよく残しているが、子細に観察するとやや古相をとどめる遺構と新しい遺構があるようだ。石田三成の佐和山城後にも井伊氏が入っているため、新相を示す遺構が石田三成段階であるとも早計には結論づけることはできない。また改めて考えてみたいと思う。