●菩提山城とその周辺の遺構について

 (1)菩提山城について

 菩提山城については、かつて垂井町教育委員会によって測量調査が行われている(垂井町教育委員会『菩提山城遺跡 測量調査報告書』1980年)。そこでは菩提山城の主要部分についての1mコンターの測量図が掲載され、所謂「台所曲輪」で採集された石臼片が三輪茂雄氏によって曲谷臼であることが確認されたと報告されている。
 菩提山城の縄張り図はいくつかが公表されているが、最も詳細なものは長谷川博美・長谷川銀蔵氏による「菩提山城図」である(長谷川銀蔵「菩提山城」『図説中世城郭事典2』所収、1987年)。その正確さと詳細な観察は他を圧倒している。
 菩提山城の創築年代は不詳ながら、天文年間の早い頃、岩手氏によると推定されている。天文13(1543)年8月9日土岐頼芸が岩手四郎に書状を送っている。それには「菩提山之儀申出之処 即時令入城之由注進候尢神妙候 江南北へ令堅約之条切々時宜彼方へ可申談候齋藤左近大夫かたへも堅申付候 要害之事無油断可申付候儀簡要候 猶稲葉右京亮可申候 恐々謹言 八月九日 頼芸花押 岩手四郎殿」とある。当時頼芸は尾張に逃れていたが、稲葉山城に斉藤道三を攻めている。この稲葉山攻めに当たって、この機に乗じた近江の浅井氏・六角氏の美濃への侵入を牽制するよう、菩提山城の守りを固める旨の要請である。この後、竹中重元が永禄元(1558)年に岩手弾正(四郎?)を滅ぼして、岩手氏の砦であった菩提山に菩提山城を築城したのが永禄2年であったとされている。この年、西之保の不破河内守が菩提山を攻めているが、竹中氏はこれを退けている。重元の子が竹中半兵衛重治である。重治が永禄7年2月6日にわずか20名足らずで稲葉山城を奪取し、斉藤竜興を迎え入れ、その後秀吉の軍師として名をはせたことは名高い。重治の子重門は重治の没後、菩提山城を下り、岩手に館を構えて陣屋としている。重門は関ヶ原合戦の時、当初西軍に属したが後に東軍に与している。関ヶ原合戦の後、重門は5000石の領地を安堵された他、領地が戦闘で荒れたとして米1000石を家康は見舞いに送っている。
 さて、菩提山城の縄張りについては他論に譲ることとするが、大規模な堀切と竪堀を駆使した戦国期末期の極めて発達した山城である。とりわけ主郭と副郭との間に設けられた堀切で囲まれた部分は馬出し状となり、二重の複雑な構造の虎口となっている。また南西尾根と城域を遮断する二重堀切と竪堀を組み合わせた独特の構造は注目に値する。

(2)菩提山城の南西尾根の「遺構」について

 菩提山城を地形図で検討してみると、二重堀切で強固に遮断した南西尾根はさらに延びて、明神山から南下する尾根と結んでいることがわかる。この部分については、かつて訪れた時に少し歩いている。そこで得られた所見は、やはり二重堀切が菩提山城の南西端を区画するものであって、南西尾根には人為的な遺構は認められないというものだった。
 昨年になって藤井尚夫氏によって『フィールドワーク関ヶ原合戦』(朝日新聞社、2000年)が公表されていることを知った。関ヶ原合戦や賤ヶ岳の戦いの戦跡を踏査して、現在の地形に歴史を読み取ろうとする労作である。その中で菩提山城から南西尾根を踏査した結果として、明神山から南下する尾根との結合点付近に大規模な空堀と竪堀を発見し、写真・図と合わせて報告されている。この報告は、菩提山城から南西尾根にかけて遺構は存在しないと考えていた私に、少なからぬ衝撃を与えた。今回の山行の直接の動機はその再確認にあった。
 観察の過程は本HPに譲るとして、結論的には尾根の結合点を超えたところで深い掘り割りを確認することができた。と同時に、その掘り割りが尾根を遮断するものではなくて、尾根上を明神山(杖立神社を経て岩手峠)へとつながる古い峠道ではないかと思われた。また結合点から尾根を下った部分の、前掲書で「竪堀」とされた部分も歩いてみた結果、やはり分岐する旧道であると思われた。現在の25000分の1地形図ではこの旧道は表記されていないが、手元にある大日本帝国陸地測量部による20000分の1地形図(明治24年測図)には、岩手峠へ南から至る道は大きく分けて@旧関原村の瑞竜付近からまっすぐ尾根を北上する道と、A旧相川村伊吹から谷筋を遡上して尾根に取り付く道、B旧相川村伊吹小高から北上する尾根道、そしてC菩提から谷筋を遡上し、急斜面を登って尾根に取り付く道がある。このうち、問題となるのは@からCである。これらの旧道はCは直接、AとBは南で合流した上で、それぞれ結合点に到達している。現地で分岐して下っていると確認したのは、CとABとの分岐点のこととなる。前掲書で竪堀と表記されているのはCの道である。
 さてこれらの「遺構」が前掲書が推定する関ヶ原合戦に際して「東軍が進出した最前線」であり、「臨時的築城工事で造られた空堀」であるかどうか、という点である。先に掘り割りが尾根を切断する形で作られるのではなく、尾根上に尾根に沿って明神山方向に付けられていることを指摘した。また、「竪堀」が尾根上を侵入する敵が山腹を迂回することを阻害する形で付けられているものではないことも指摘できる。これらの掘り割りが前掲書で指摘する遺構である可能性は低い、といわざるを得ない。
 Cの旧道とABの旧道は結合点付近で分岐する尾根をそれぞれ下っている。その尾根の分岐する中央を通っているのが掘り割りの旧道となろう。あくまでも自然地形を元にして掘り割り道がつけられた可能性が高いと、ここでは考えておきたい。
                    (20041226MIHARUの山倶楽部管理人M.S.記)