白馬岳(2932.2m)
2004年9月18〜19日
長野県小谷村栂池より
白馬岳登山ルート図
レリーフの等高線は20m。スケールの単位はm。

第1日(栂池〜白馬乗鞍岳〜白馬大池〜小蓮華山〜白馬岳〜白馬岳頂上宿舎)

夏のリベンジに再び白馬岳登山を計画。再びといっても、よく考えたら前回は山頂すら踏んでいない。大雪渓を歩く蟻の行列と人の多さに辟易して、人を押し分けるような山頂へ無理をしても立とうとは思わなかった。今回は、当初計画通りの栂池から山頂を目指す。後立山登山の定宿アルペンロッジ岳都さんに栂池ゴンドラまで送っていただく。ゴンドラ始発前から行列ができていたが、夏と比べればずっと少ない(6時56分、写真左)。今日の天候は曇り後雨。明日は降水確率70パーセントの雨と天候は期待できそうもない。ゴンドラとロープウエイを乗り継いで、栂池自然園へ。ロープウエイの車内放送は晴れバージョンだったが、一面ガスで何も見えなかった。ロープウエイ駅で支度を調え、登山道へ(7時58分、写真右)。登山者が数珠繋ぎでないことがうれしい。
登山道横のゴゼンタチバナの実(写真左)とサンカヨウの実(写真右)。やはり秋だ。
天狗原への登山道から白馬大雪渓を見る。昨年の7月にここから見た時は、大きな雪渓の中央を蟻の行列が歩いていた。今年はすでに雪渓は小さくなっている。雪渓中央を歩く登山者の姿も見られないから、すでに大部分が秋道に変わっているのかもしれない(8時47分、写真左)。写真右は雲海に浮かぶ八方尾根。
天狗原が近づくと青空がのぞき始めた(8時57分、写真左)。栂池自然園付近ではそれほどにも感じなかった紅葉が、もう始まっていた。昨年夏に雪田が残っていた所も、ゴロゴロの岩が露出する登山道へと変わっていた(9時03分、写真右)。
天狗原の溶岩台地上の池糖。草紅葉が始まっていた(9時12分、写真左)。白馬乗鞍岳山頂近くに大きな雪田が残っていた山腹も、ゴロゴロの岩肌が露出するだけとなっている。昨晩栂池ヒュッテ等に泊まった登山者だろう、登山道をはいつくばるように上っているのが見える。それにしてもこの青空は予想外の喜び。つかの間だろうが、それでもうれしい。ところで写真には写っていないが、天狗原には祠がある。1927年に勧進された白馬岳神社で、祭神は天照大神。伝えられる所によると、白馬岳山頂の借地願が認められず、当時の南小谷村に村有林一部借用願を出してここに建てられたという。現在の石造りの祠は1958年のもの。天狗原で休憩後、木道を歩いて進む。写真右は風吹大池への分岐。一度行ってみたい所だが、ここでは左にとる(9時24分、写真右)。
去年7月に訪れた時にはここから雪田の上を、ロープを頼りに登っていった(9時36分、写真左)。雪がなかったら歩きにくいだろうとその時に話していたが、今日はまさにその通り。ゴロゴロの岩礫の急勾配の登山道を登る。登山道から見下ろすと、紅葉の向こうに天狗原が広がっていた(9時44分、写真右)。
遠くには雨飾山を望むことができた(写真左)。少しずつ空が暗くなってきた。白馬乗鞍岳山頂にはまだ少しだけ青空が残っていた(写真右)。岩礫の上部を右へトラバースして、三角点のある乗鞍岳山頂端に登る。乗鞍岳はトロイデ型の死火山で、溶岩台地を形成している。三角点標高は2437mとなっているが、ここが最高点ではない。
10時29分、乗鞍岳山頂ケルンに到着(写真左)。もう青空はどこにもなかった。ここで小休止後、白馬大池をめざして登山道を下る。眼下には静かな大池が広がっていた(10時50分、写真右)。登山道は岩礫の道を池に沿って山荘へと続いている。
11時13分、白馬大池湖畔に到着(写真左)。湖畔には白馬大池山荘が建っている(写真右)。乗鞍岳の火山活動によって流れ出した溶岩がせき止めた湖であることがよくわかり、見る限り火口湖という感じはない。かつて湖畔に建てられていたという鳥居は、今はない。
白馬大池山荘前の広場で昼食とする。ここにはベンチが置かれていて、たくさんの登山者が休憩していたが夏の喧噪はなく、静かな大池だった。写真左はここから雷鳥坂を見た所。傾斜はなだらかで、乗鞍岳の溶岩流がここにまで及んでいないことがよくわかる。ところで白馬大池付近にはハシブトガラスが数羽いた。本来の生息域でないことは明らかで、栂池自然園、天狗原と続くここに登山者の残飯などが引き寄せたものだろう。比較的生息数が安定しているという白馬岳周辺のライチョウへの影響が心配だ。11時35分白馬大池を出発し、なだらかな雷鳥坂を登る。雷鳥坂ではライチョウならぬ2羽のホシガラスが盛んに種子をついばんでいた(写真右)。ハイマツやオオシラビソの実が好物で秋には貯食の習性があるという。人を怖がる様子もなく、食べるのに精一杯といった感じだった。
雷鳥坂から白馬大池を振り返る。ガスに隠れようとしている(12時03分、写真左)。反対に小蓮華山の方角を見上げる。ガスに覆われていて、次から次へと現れるピークに小蓮華山山頂を期待するが、次々と裏切られる。白馬大池からの標高差はそれほどでもないが、ともかくアプローチが長い(12時19分、写真右)。
船越の頭を過ぎて行く手を見る(12時57分、写真左)。二重山稜になっていることがよくわかる。砂礫の登山道を登ると、ようやく小蓮華山の頂が見えた(13時28分、写真右)。鉄鉾(剣?)が立っているから間違いなさそうだ。
小蓮華山山頂(13時34分、写真左)。岩礫に覆われた山頂には、巨大な鉄鉾(剣?)がそびえている。1927年に立てられたという。傍らにある石仏は大日如来像と伝えられるが、頭部が欠けてしまって無惨な姿になっている。一説では「享和元年」と銘が彫られていたともいう。新潟県の糸魚川方面から見ると、雪をいただいた峰々が蓮の花のように見えることから、白馬岳を大蓮華山、ここを小蓮華山と呼んだと伝えられる。写真右の三角点は三等三角点で点名は「小蓮華」であるが、見るからに位置が動いている。このため国土地理院では亡失扱いとし、処置保留としたままになっている。
小蓮華山で小休止後、稜線から白馬尻を見下ろす(13時51分、写真左)。白馬尻小屋の青い屋根が見える。ここからしばらくはなだらかな稜線歩き。ほとんど水平で幅広の道は、歩いていて気分がいい(13時55分、写真右)。
三国境を目前にして現れた巻き道(14時12分、写真左)。ザラザラの道を、喘いで登り切ると、三国境は目前。写真右は鉢ヶ岳とその手前に長池。ガスの向こうは雪倉岳(14時22分、写真右)。
やっとのことでたどり着いた三国境(14時23分、写真左)。ここまで結構長かった。栂池から抜きつ抜かれつしてきた団体さんは、いつの間にか2つに分かれてしまったので、ここで後半の到着を待つという。とうとうこで雨が落ち始めた。カッパは暑いのでギリギリまで見合わせようとしていると、知らないうちに雨はやんでしまった。やはり今日はついている。ところで1935年に、ここ三国境で石仏が発見されたという記録がある。現存しないようだが、座像であったと伝えられているが、どんな石仏だったのだろうか。三国境で休んだ後、白馬岳へ向かって出発。手前には岩峰が立ちはだかっている(14時48分、写真右)。乗鞍岳を過ぎてから唯一の難所だが、それほどでもなく難なく通過。
15時13分、突然ガスの中に白馬岳山頂が姿を現す。なんと言っても方位盤が、ここが山頂であることを物語っている。やっと着いた。写真右は強力が担ぎ上げたという方位盤。今日は360度の大展望こそないが、大満足。
山頂は一面のガスにもかかわらず登山者でにぎわっていた(写真左)。今日のような天気でこの様子だから、夏は推して知るべしである。ほとんどの登山者は雪渓を登ってきていた。「夕べ栂池ヒュッテに泊まったのか」と聞かれ、朝イチでゴンドラを上がってここまできたというと驚いている人がいた。夏の新越山荘から針ノ木経由の扇沢ほどではないが、長かった。三角点は一等三角点で、標高は2932.24mである。所在地は長野県北安曇郡白馬村大字北城字松川9461となっている。写真右は山頂から少し下りた所にある故松沢貞逸氏のレリーフ。ガスの中、ほとんどの登山者が気づかないまま山荘に向かって下りていく中、ちょっと寄り道。松沢氏が白馬岳山頂に日本最初の山小屋を開設して、来年でちょうど100年を迎える。針ノ木谷の大沢小屋では故百瀬慎太郎氏のレリーフを見逃してしまったので、ここは忘れないように一枚。
白馬岳山頂からしばらく下りると、巨大な白馬山荘が見えてきた(写真左)。収容人員1500人という、日本最大の山小屋である。ほとんどの人がここに宿泊するらしく、オフシーズンにもかかわらず受付は賑わっていた。ここに未練を残しながらも、もうちょっと下りるともっと空いている村営頂上宿舎があると思うと、迷ったあげくまたまた頂上宿舎に泊まることに決定。参考までに白馬山荘のレストラン「スカイプラザ」を覗いてみたが、木をふんだんに使った造りとあまりの近代設備に唖然としてしまった。何とここにはモンベルショップまであって、町そのもので、ちょっと引いてしまった。村営宿舎目指して下りる(16時06分、写真右)。夏と違って、村営宿舎にはまるで人気がなさそう。心配になって白馬山荘目指して登ってくる登山者に聞くと、営業中とのこと。それほどまでに2つの山小屋は対照的だった。
宿泊手続きを済ませて、部屋へ。1部屋にわずか5人の、ガラガラ状態だった。例によって下のレストランで生ビール。夏は枝豆がついていたが、今日はチャーシュー付き。これで1杯850円(写真左)。夕食はバイキングで、夏の同じメニューだったが、山小屋としては最高の夕食だと思う。夕方の天気予報では明日は雨との予報。どうやら寒冷前線が通過するらしい。雨の場合は雪渓を一目散に下ることに決定して、小屋で作ってもらった朝と昼の弁当をつめこんだ。
※収容人員1000人という村営頂上宿舎のこの日の宿泊者は、夕食の数からしておよそ60名ほどだったと思う。夏の5分の1ほどに過ぎなかった。当初は雪渓を下りない予定だったため、アイゼンを持参していなかったため、どうしようかと悩んだが、幸いレストランで4本爪の中古軽アイゼンを1つ800円で売っていたため、これを購入。12本爪と比べてずっと軽い。夏はこれで十分、とちょっといい買い物をしたかな。

第2日(白馬岳頂上宿舎〜白馬大雪渓〜猿倉)

夜半前から風雨が強まった。特に風は強烈で、一晩中小屋の屋根が音を立てていた。多くの登山者が早朝の出発をあきらめて停滞。7時を過ぎてちょっと雨は弱くなってきたが、天候の回復は見込めなさそう(7時17分、写真左)。今朝の天気予報では、午前中に雨はやむらしい。宿泊していた登山者もようやく動き始めた(7時37分、写真右)。2時間程出発を遅らせて、こちらも覚悟を決めて、カッパを着込んで完全防水で8時15分に小屋を出る。葱平をめざして下山する。
意外なことに、カッパを着込んではみたものの、全く雨は降らない。避難小屋に着く頃にはカッパを脱ぎ始める人も出始めた(8時49分、写真左)。振り返って見上げると、青空までも顔を出し始めた(写真右)。紅葉がきれいだ。
杓子尾根から突き出した天狗菱の岩稜(9時09分、写真左)。夏に残っていた雪渓も、もう見られない。大雪渓からはガスが吹き上がっているが、天候はよくなる一方のようだ(9時10分、写真右)。
夏の大雪渓取り付きには、ほとんど雪渓は残っていなかった(9時19分、写真左)。雪渓の端には大きなシュルントが口を開けていた(写真右)。ここからは雪渓に沿って、谷の左側の秋道を歩く。
秋道から見た紅葉と稜線(9時49分、写真左)。わずかに残った雪渓道(10時38分、写真右)。雪渓中央の赤線は今は通れない。目印の赤布を巻き付けた石を伝って雪渓をトラバースする。4本爪の軽アイゼンだが、効果は抜群だった。このわずかなトラバースで雪渓歩きは終わり。
雪渓を終わって、秋道からトラバースを見下ろす(10時42分、写真左)。ほんのわずかな雪渓歩きのルートがよくわかる。ここからは山腹を巻く秋道(写真右)。これがとんでもない所で、昨晩降った雨のために路肩は緩く、次々と崩れていく。しかもアップダウンを繰り返して、雪渓を下る時間と比べて数倍かかるのではないかと思われるほどだった。
靴をドロドロにしてようやく本来の雪渓取り付きまで下りる(11時07分、写真左)。夏と比べてほとんど雪が残っていないことがわかる。ここには何人もの観光客が遊びに来ていたが、下山してきた人との差は歴然としていて、我が身を振り返ってなんだかおかしかった。白馬尻の白馬尻小屋のテラスで生ビールと弁当を食べる。頂上宿舎の弁当は、おかずがいっぱいで本当においしいと思う。ここは日差しは強かったが、やはり秋だった(12時11分、写真右)。
村営の白馬尻荘は既に撤去されていて、夏の終わりを告げていた(写真左)。猿倉へ到着したのが13時28分(写真右)。心配した猿倉荘のかき氷はまだ健在で、今日一日をかき氷で締めくくることとなったのだった。初めて路線バスに乗って八方まで戻ったが、乗客は全部で4人。登山シーズンは終わろうとしていた。
※ようやく夏のリベンジを半分だけ果たすことができた。天候さえよければ、白馬鑓温泉を経由して下山することもできたのにと思うと、少し残念ではあるが、それはまたのお楽しみ。簡単白馬三山を歩いてしまうよりも、楽しみが大きいかもしれない。来年以降への課題である。今回は結局、2日を通して雨には降られなかったことになり、幸運を喜んだ。バスの運転手さんにもよくしていただいて、最後まで幸運な一日だったと思えたのだった。秋というにはまだ暑い下界だったが、山頂はすっかり秋が深まっていた。
※今回栂池から白馬岳を歩いて、この山域の地質と地形の変化を楽しむことができた。白馬大池の両岸で地質が違っていることなど、地形図で読めないこともあり、興味深かった。これらの山域が信仰の対象とされてきたのは天正年間であるともいわれているが、いつの日か遺物が表際されることもあるかもしれない、そんな別の楽しみも持てそうな気がした山行だった。

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