鎗ヶ先(965.6m)
2004年5月22日
福井県敦賀市刀根より


レリーフの等高線は20m。スケールの単位はm。
今日は揖斐谷の山、花房山を考えていたが、天気予報では午後雷雨。朝の空模様もそれを予感させるものがあり、急遽近江湖北の低山のハシゴに変更する。傘を差しても歩ける山、というわけである。まず午前の部は中尾山。別名、内中尾山とも柳ヶ瀬山とも呼ばれる、滋賀県と福井県の県境にある、歴史いっぱいの山である。八草トンネルを抜けて滋賀県に入り、さらに狭い交互通行の柳ヶ瀬トンネルを抜け、すぐ北陸道車道をくぐって林道に入る。林道はずいぶん奧までつけられているが、あんまり奧へ行ったのでは山歩きにはならない。舗装が終わろうとしている所の駐車スペースに止める。9時12分出発。谷水は清らかで、気持ちがいい(写真右)。
林道分岐を玄蕃尾城への標識に従って左にとる(9時16分、写真左)。そうだ、中尾山というよりも玄蕃尾城跡といった方がわかりやすい。林道を歩くと、横にはタニウツギの花が満開となっていた(写真右)。揖斐谷の山村ではこの花をダニ花といって、ダニがいるからとってはならない、とよく言われた言われた花である。
林道越しに中尾山が見え始める(9時26分、写真左)。まもなく林道終点に着く。ここに簡易トイレがあり、ここから山道となる(9時29分、写真右)。かつて訪れた時には、山道は草に覆われていて、かきわけて歩いたものだ。まだ最近刈り払われたらしく、歩きやすい道となっている。これはうれしい誤算だ。
何の苦労もすることなく、刀根坂の峠に到着(9時23分、写真左)。ここから左の尾根を登ると玄蕃尾城に至るが、峠から右の尾根に新しく階段が付けられていた(写真右)。羽柴秀吉に対峙した柴田勝家は、布陣した玄蕃尾城から佐久間盛政の着陣する行市山、そして前田利家、徳山秀現ら配下の北国勢の布陣する城塞群を連絡する軍用道路を設けた。いわゆる賤ヶ岳の合戦である。行市山から玄蕃尾城までの軍用道路をたどる縦走路は、最近までは藪の中に埋もれて相当な難儀をしなければ縦走は不可だったはずだが、この分では新しい登山道が開かれているらしい。いつか歩いてみることにしよう。
さて、峠から北へ尾根を登ると、まもなく草むらの中に四等三角点がある(9時43点、写真左)。国土地理院の「点の記」によると点名は中尾山、所在地は滋賀県伊香郡余呉町柳ヶ瀬字打谷773となっている。しかし三角点は中尾山の最高点に設けられてはおらず、さらにしばらく尾根を標高にして15メートル程登ると玄蕃尾城跡に着く(9時49分、写真右)。国指定史跡となっている玄蕃尾城(内中尾山城)であるが、下草はきれいに刈り払われて、中世城郭としての遺構が手に取るようにわかる。これもうれしい誤算だ。かつてここを歩いたときは、草また草だった。
ここからしばらくは玄蕃尾城跡の遺構見学である。写真左は大手曲輪(左)と自然地形との間に設けられた堀切である。虎口から大手曲輪に入り、さらに主郭の東に張り出した馬出状の虎口曲輪への虎口を見る(写真右)。虎口曲輪は土造りの中世城郭でありながら、すでに近世城郭の枡形への姿を見せていることが注目される。
東虎口曲輪を防御する堀切の実効深度は曲輪の土塁によってさらに高められている(写真左)。曲輪ののり面は急傾斜となっていて、石垣こそ用いられてはいないが、石造りの城郭と比べて遜色のないものとなっていて、中世城郭の集大成として、また近世城郭への過渡期としての姿を見せている。主郭土塁上から近江盆地を望む(写真右)。山稜の一番先に見えるのが、田上山。秀吉軍の事実上の本陣となった、秀長着陣の田上山城である。
同じく主郭を取り巻く土塁上から行市山を見る。佐久間盛政が布陣した行市山砦があった。賤ヶ岳合戦前も、柴田勝家は田上山の秀長陣を遠望し、また行市山砦をこのように見ていたはずである。さて、玄蕃尾城主郭の一画には天主台が設けられている(写真右)。石垣はないが、石垣を張り巡らせた城郭と全く遜色ないことは注意すべきだろう。
さらに主郭西虎口郭から、最も大きな北曲輪を見学して、主郭天主台でちょっと早い昼ご飯。誰も訪れない、静かな中尾山だった。11時14分に腰をあげ、刀根坂峠に下りたのが11時28分(写真左)。ここではじめて3人連れの見学者とすれ違った。みなさん見学者といった感じで、こちらは登山姿。ちょっとはずかしいような感じである。11時46分、駐車スペース着。谷水は清らかで、ここでも一枚撮影(写真右)。曇り空だったが、結構暑かった。
※玄蕃尾城跡には中世城郭の、ある種最も完成した形を見ることができる。玄蕃尾城は、賤ヶ岳合戦で廃城となり、その後改修されることがなかったため、賤ヶ岳段階での姿をそのままとどめているといえる。ただし、ここに初めて城を築いたのは、朝倉氏であったと考えられているが、現存する遺構はすべて柴田氏の遺構であることは確実である。考えてみれば、柴田氏配下の北国勢は、かつて信長の安土城築城に携わった経験を持っている。安土城を経験した北国勢によって、土造りではあるものの築城された玄蕃尾城は、それまでの中世城郭とは決定的に違うというべきだろう。柴田勝家は天正10年(1882)6月27日の清洲会議によって、羽柴秀吉との衝突が不可避となった。そのため、北国への軍事的要衝の地であった中尾山に、玄蕃尾城の大規模改修を突貫工事で行った、と考えられている。現存する遺構がすべて柴田氏によると考えられることから、改修というよりも新たに築城したといった方がよい。ここに見られる遺構は、枡形に近い馬出状の虎口曲輪があること、堀切と土塁が高度に発達していること、天主台が出現していること、一貫した縄張りと作事がうかがわれることなど、天正10年から11年に最後の形を見た、限られた時期の築城であることはまず間違いない。しかし行市山、別所山などを歩いた感想からすれば、玄蕃尾城は北国勢が築いた他の砦などと比べて突貫工事という姿は、余り感じられない。むしろ、戦時の陣城などではなく、北国街道と刀根坂の分岐に位置することを考えると、北国経営を睨んだより恒久的な城郭として清洲会議以前から築城が始まっていた、と考えた方が自然であるかもしれない。仮にそうであっても、遺構の最終形が天正11年であることは動かず、遺跡としての重要性は変わらない。賤ヶ岳合戦の戦端が開かれたのが天正11年4月21日。北国勢総崩れにより、玄蕃尾城を捨てて北ノ荘へ敗走した柴田勝家が自刃したのは4月24日のことだった。