塔ノ倉(715.7m)
2004年4月3日
滋賀県東浅井郡湖北町伊部より


レリーフの等高線は20m。スケールの単位はm。
天気があまりよくなさそうな、肌寒い1日を小谷山を歩くこととした。まだ下草も伸びていないこの時期こそ、小谷城跡に歴史をたずねる山歩きには最適、と車を走らせる。駐車場には桜がほぼ満開状態(写真左)。観光協会の方がカレンダーにするとデジタルカメラで坂区に撮影しておられた。遠慮して駐車場入口に車を止める。人でいっぱいかと心配したが、どうやらそれほどでもなさそう。10時15分、駐車場を出発。小谷城跡に関係する遺構の「出丸」まで車道を歩き、そこからは尾根上の大手道を歩く(10時27分、写真右)。雑木が少しずつ切り払われて手入れされていた。はじめは寒いと思ったが、早くも汗ばんできた。今日の主目的は山頂から南へ延びた尾根を下りることである。
大手道と「金吾丸」への分岐を大手道沿いに歩く。「金吾丸」へは何度も登っているが、遺構はあまりはっきりしない。馬出し状の遺構がはっきりしている「出丸」と違って、少なくとも、浅井長政による最後の段階での小谷城の積極的な防衛線としての役割は担っていないのではないか、とすら思えてしまう。「金吾丸」西麓にはイワナシ小さな花がいくつも顔を出していた(写真右)。山麓をはい回って写真を撮るのに忙しい。今日はのんびり山歩きで通すとしよう。
10時51分、「番所跡」着。いつだったか、ここでニホンカモシカとばったり出くわして、驚いたことがあった。今日は残念ながらご対面とはならず、残念。ここから見学順路に従って「大広間跡」へと登山道は進んでいるが、今日は主稜線西斜面に設けられた帯曲輪を結ぶ小径を歩く。途中に計5本の竪堀が遺存し、小谷城の主郭へ山腹から横方向への移動による攻撃を阻害していることがよくわかる。写真右はこの小径。竪堀間は曲輪や削平地などは設けられておらず、急峻な地形に頼る構造となっている。「大広間」直下まで進むと小径も大分崩壊が進み始めた。引き返そうかと思ったが、ままよと覚悟を決めて斜面をよじ登ることにした。小谷城を攻めた織田軍も清水谷を制圧してこの斜面から「京極丸」をまず攻め落としている。
大広間に上がると、何人かの登山者が訪れていた。写真左は「本丸跡(右側)」と「中の丸跡(左側)」の間に設けられた巨大な堀切。「中の丸跡」は「京極丸跡」「小丸」を経て詰めの城である「山王丸跡」へと続いている。「小丸」は長政の父久政の隠居場所と伝えられている。小谷城を攻めた織田軍はこの堀切で浅井軍を分断し、攻略に成功している。そもそも城としての機能を分断するこの大堀切を見ていると、本来はこの堀切で山城は基本的に終わっていたのではないか、と思えてくる。ここから「山王丸」に至る部分は改修によって付与させたのではないかなどとも考えられてくる。いろいろなことを考えているうちに、あちこちにヤマエンゴサクが咲き始めているのを、うっかりと見落としそうになってしまった(写真右)。
11時45分、「山王丸跡」に到着。小谷城跡のうちで最も堅固な防御をしいた、最後の詰めの城の部分である。ここから小谷山山頂を見る(写真左)。山王丸前面の土塁の陰に、イワウチワが今が盛りと咲き誇っていた(写真右)。去年ここで出会ったイワウチワの花にまた出会うことができた。
「山王丸跡」で小休止の後、「六坊跡」へ下り、ここから山頂をめざす。この鞍部を右へ行くと「月所丸跡」と呼ばれる遺構群に至る。「月所丸跡」には独特な遺構が見られ、興味深いのだが、今日の主目的は別にあるので割愛。山頂への急な階段を上ると、途中にショウジョウバカマが花を咲かせていた(写真右)。
山頂は大嶽(おおづく)と呼ばれていて、大規模な城郭遺構がある。一般的には大嶽城跡と呼ばれているが、登山道の両側にも狭小で不十分な削平地が数多く点在している。これら削平地群はいずれも不十分な削平しか行われておらず、急ごしらえなものであることを物語っている。登山道の北斜面にはイワウチワの大群落が見られ、一面に花を咲かせていた(写真左)。イワウチワの大群落に驚嘆し、次から次へと写真を撮っていたため、山頂着は12時29分だった(写真右)。国土地理院の「点の記」によると点名は「大岳」となっていて、「おおだけ」とルビがふってある。所在地は東浅井郡湖北町丁野字小谷山2323番地となっている。
山頂には年配の女性を中心とする大グループや家族連れなどが食事中だった。汗ばんだTシャツを着替えて、我々もここで昼食。先週の暑かった霊仙山では沸かそうとも思わなかったが、今日湯を沸かして飲むコーヒーはうまい。おなかいっぱいに食べられるのも、低山ならではの楽しみである。ゆっくり休んで、13時27分、山頂を出発。下山路は「福寿丸」と矢印のある方角に延びる尾根である(写真左)。巨大な土塁や、急峻な曲輪前面の斜面をいくつも越して、延々と尾根を下る。道はあるが、標識は不十分で、ここを歩く人はあまりいないらしい。そうすえば、今日も含めて3回のうち、一度も人と出会ったことはない。13時54分、「福寿丸」着(写真右)。「福寿丸」は織田軍と緊張関係が高まった時期に、朝倉氏からの援軍によって築かれたとされている城郭遺構である。さらに尾根を下ると、同じ性格と考えられてきた「山崎丸」へ至る。両遺構とも方形のプランを基本としながら、食い違い虎口が発達した、織豊系城郭に匹敵する特徴を備えた城郭遺構である。もし伝承通りであるとするならば、朝倉氏の築城術が極めて発達していたことを示すものとなる。
今日の主目的である「福寿丸」と「山崎丸」を見学して、郡上へ降り立ったのが14時25分だった(写真左)。神社は清水神社の名が当てられていて、水道施設直下に祀られていた。写真右は駐車場へ戻る道すがら撮影したもの。清水谷の向こうに見える大嶽城跡(中央)と左に山崎丸と福寿丸の尾根、右が小谷城主郭が見える。花に出会えたり、歴史を訪ねたりと、色々盛りだくさんの1日だった。
*今回の小谷山はこの季節しか訪ねられない「福寿丸跡」と「山崎丸跡」を訪ねる山歩きとなった。このコースは小谷城跡の遺構と、大嶽城跡の遺構、福寿丸・山崎丸の遺構の3者を比較することができる大変興味深いコースである。まず大嶽城跡についてであるが、大規模な遺構である。土塁の幅は広く、西南尾根とは二重堀切で分断するなど、戦国期の造作が認められるが、反面不明瞭な虎口構造などよくわからない所も多い。また遺構の風化も進んでいる。おそらくは小谷城跡築城に先立つ、古い段階の城郭跡であった所を、織田との緊張関係の中で大規模な改修を加えた可能性が考えられそうである。小谷城の攻略に先立って、天正元年(1573)8月12日大嶽城は落城している。小谷城落城の2週間前のことである。福寿丸と山崎山は規模や構造から極めて近い時期に構築されたものであることがわかる。また両砦間の緩斜面は宿陣として機能したと考えられ、ここには両側が削平された土橋も残されている。これらの遺構は織田氏との緊張関係が高まった浅井氏に対して、これを支援した朝倉氏によって築城されたと考えられてきた。しかしこれが当を得ているかどうかは、これからの検討にゆだねられねばならないだろう。さて、昨年には見られなかったことだが、今回歩いてみて各所に測量用の杭が打ち込んであった。これが遊歩道の整備などというものではなく、中世城郭遺構の測量調査のためであるならば喜ばしいことだといえるだろう。安易に「整備」の名の下による「破壊」がなされないよう、今後とも強く望みたいと思う。