2003年11月15日
福井県南条町阿久和より


レリーフの等高線は20m。スケールの単位はm。
一つの山へ行くと、その近くの山がどうにも気になって仕方がない。一乗城山に続いて、今回もまた越前の低山である杣山(そまやま)へ行くことにした。分県別登山ガイド「福井県」にも紹介されている手頃なハイキングコース、といった山だが、ここにも山城が築かれた歴史がある。当たり前の話だが、防御を前提とした山城は急峻な地形に築かれている。意外と難儀な道かもしれない。今日は夕方から雨という予報。ここならばゆっくりしても昼過ぎには下りて来られるだろうと、駐車場に10時少し前に到着。すでに数台の車が止まっていた。駐車場は広く、水洗トイレや利用自由の休憩所で寝っ転がることもちょっとした宴会もできそうだ。9時56分、出発前に杣山を見る(写真左)。手前の木を切り倒した部分は詰めの城である杣山城に対応した麓の居館跡。よくみると土塁が遺存していることがわかる。案内板によると、登山道1から3まであるが、その他にも間道が通っている。今回は登山道2を使う予定だったが、居館背後の谷筋を登る「姫穴」コースをとる。杣山城の大手筋は登山道2の文殊堂コースと思われるが、それはこの次のお楽しみ。発掘調査が進められている居館跡を過ぎて、登山道は林間へ入る(写真右)。
丸太で階段が作られていて、ちょっとしたキャンプ場もあるらしい。周りの樹木は木の葉を落として、すでに晩秋を思わせる。どうも今年は変だ(写真左)。しばらくして休憩所に到着。キャンプ場だけでなく、登山道と杣山周回コースをかつて整備した際に設けられたものらしい(10時20分、写真右)。姫穴コースはここを右にとる。
登山道は少しずつ傾斜を増して、いつの間にか丸太階段の段差は大きくなっている。樹木の開けたところから振り返ると、左手奥に日野山がそびえているのが見える(10時35分、写真左)。日野山は夜叉ヶ池からも容易にその姿を見極められるほど、特徴的な山容をしている。美濃の山から眺められた山がすぐそこに見られるのは、なんだかうれしいことだ。10時38分、姫穴に到着。姫穴コースは岩盤を削り込んで道が付けられているため、ちょっとした岩稜歩きとなる。そのため、こんな小さな山に鎖が取り付けられていて、ちょっとした鎖場となっている。姫穴から岩盤を見上げると、わずかばかりの紅葉がそこにあった(10時39分、写真右)。姫穴は南北朝争乱期に南朝方の山城として闘いの場となった際の逸話を伝えている。
姫穴を過ぎて、岩盤を回り込むように登山道がつけられている。岩稜を登るが、ここにもしっかりと鎖が付けられている(10時43分、写真左)。岩盤を回り込んで尾根にとりつくと、いつの間にか広がっていた青空に紅葉が輝いていた(10時47分、写真右)。今日は誰も出会わないかと思っていると、上から2人連れが下りてきた、地元の人らしく、見るからに軽装で、登山靴を履いているのが恥ずかしくなりそうだ。そんなことを思っていると、今度は背広姿の手ぶらの男性が下りてきた。やはり地元の人には手軽なハイキングコースなのだ。
10時56分、殿池に着く。写真左は登ってきた登山道に殿池を入れて撮ったもの。殿池は年中水量が変わらず、豊富に保たれているという。杣山城の重要な水源であったことは間違いない。殿池の西側は土塁状の高まりが見られる。水の手曲輪である。しばらくすると尾根に出る(10時59分、写真右)。西御殿跡と伝承されている一帯である。十分に削平された曲輪や、櫓台、ここには掲載しなかったが西の尾根とを遮断する深い二重堀切など、戦国期の遺構の姿をとどめている。朝倉氏の有力な支城の一つであったことが十分にうなずける。
二重堀切を見に、西の尾根へ少し進むと、日野山が見えた(写真左)。流れるのは日野川。文殊堂からの登山道に順に置かれているらしい石仏。文殊堂からの登山道2も楽しいかもしれない。予報通り、すぐには雨が降ってくることはなさそうだ。時折青空ものぞいて、暖かい。こんなに暖かいこと自体変なのだが。
いろいろ見たい気持ちを抑えて、ともかく三角点を目指す。尾根は時折岩盤がが露出している。写真左は尾根途中の袿掛岩(うちぎかけいわ)。南北朝争乱期に瓜生保の籠城にまつわり、ここから身投げした女たちの伝承を伝えている(11時20分)。袿掛岩を過ぎて、尾根を遮断する堀切を中央の土橋で横切ると、杣山城の主郭に着く(11時27分、写真右)。中心の曲輪は平坦だが、後世の手が多分に加わっているようで、慎重な判断が求められそうだ。
暖かな日差しのせいか、主郭西側の桜の木は花を咲かせていた(写真左)。紅葉と桜というのも何だか変ではある。ここまで誰とも出会わないし、どうやら誰も登っては来ないらしい。ここはひとつ、のんびりと昼食に限る、と弁当をほおばる。山頂からは越美国境の山並みが一望できる。春先がきれいかもしれない。のんびりといっても、天気が悪くなってはかなわんと、12時05分に出発。主郭から北へ延びる尾根に遺存する「東御殿跡」伝承地はまたこの次の楽しみとして、東へ延びる急峻な尾根を下る。主郭からの急傾斜を下りた所に堀切が一本あり、そこを過ぎると尾根はやせ尾根となる。岩盤が所々に露出し、「犬戻駒返」なる地名も付けられている程である。岩稜には鉄製梯子までかけられている(12時20分、写真右)。まさかこんな低山で鉄製梯子を使うとは思っても見なかった。ちょっとばかり得をしたような気分である。そんなことを話していると、見るからに他県からの登山者が一人で登ってくるのに出会った。両手にストック、背には大きなザックという格好。もしさっきのような背広姿の手ぶらのハイカーに出会ったとしたら、そのショックはいかばかりだろうか、なんて思うと、我が身を振り返っておかしくもなってくる。
写真左は12時24分、鉄製梯子を下りた所から。右奥は日野山。東への尾根筋には計4本の堀切が設けられていたが、ざっと見たところ明確な遺構は認められなかった。最も東の広い平坦地は人為的な削平は不十分ながら宿陣としての機能を有していたのかもしれない。帰路は登山道3を下りる。あきれかえるほどの丸太階段で、延々と続いている(12時42分、写真右)。しかし、歩幅がよく考慮されていて、実に歩きやすい。丸太と丸太の高低差がありすぎるところには、途中に扁平な石が置かれたりもしている。
13時06分、杣山ふるさと小公園に下り立つ。そこは花はす公園として、温泉まで出るという。たくさんの車やマイクロバスで大勢の人がやってきていた。湯上がりに昼寝をしている姿も見られて、こちらも温泉に入りたくなるが、その後の運転を考えて今日はあきらめ。写真右は花はす温泉「そまやま」とその背後の杣山。駐車場までだらだらと歩いて13時15分に着。のんびり山行きの中にも色々あって、充実した山行きとなった。
※杣山への登山口にあたる阿久和は、一乗谷と同じような城下町を形成していた。11月17日に登山者の一人はもう一度ここを訪れ、上の写真を撮った。阿久和谷をふさぐ木戸(城戸)に設けられた水濠と土塁である。土塁は一部しか遺存していないが、水濠と共にかつて発掘調査が行われている。水濠は写真左の右手の道下にまで広がっていたことがわかっている。写真右は水濠と土塁、その向こうに杣山。17日は文殊堂から登り、三角点のある主郭から北尾根を下り、「東御殿跡」を見学しながら下山した。国指定史跡となっているのは山上の遺構の遺存状態の良さだけでなく、麓の居館跡や木戸跡も含めた戦国城下町としての遺跡の意義からだろう。一乗谷との規模の差は朝倉氏と朝倉孝景の家臣だった河合安芸守宗清との差だろう。再度の見学でいろいろ勉強になったが、これは後日UPする閑話休題に譲りたい。ただ一つ、杣山城は朝倉氏を支える有力な支城の一つであったにもかかわらず、山城域にほとんど畝状竪堀群が見られないことは注意される。織田の侵攻に際して設けられたと考えられる畝状竪堀群が杣山城に見られないことは、ここが一乗谷の最終防御ラインからはずされたということなのだろう。有力支城の一つであった杣山城に防御を施すことができなかったほど、朝倉氏をとりまく状況は逼迫していた、ということだろうか。