金華山(330m)
2003年8月23日
長野県小谷村雨飾山キャンプ場より


レリーフの等高線は20m。スケールの単位はm。
お盆が過ぎて、2度目の梅雨明けがやってきたようだ。8月下旬の23日に雨飾山を目指すことにしたが、前日岐阜は最高気温37度というとんでもない猛暑。夜遅く白馬村和田野にあるアルペンロッジ岳都さんに着き、横になる。早朝の5時30分朝食をお願いし、車で小谷温泉を経由して雨飾山キャンプ場へ向かう。雨飾山はずっと気になっていた山だった。それは深田久弥氏が百名山に選んだというより、林明輝氏の写真集「あまかざり」を知ってからだった。林氏の写真集は2年半にわたり通い詰めた雨飾山が持つ四季の魅力を十二分に伝えていた。しかし長野県小谷村と新潟県糸魚川市の県境の秘境というイメージが強く、あまりにも遠いと思われた。しかも近年、紅葉シーズンには恐ろしい程の登山道の渋滞が待ち受けているという。これはかなわん。しかし岳都さんによると和田野から40分もあれば登山口に着くという。それならば、紅葉が始まる前ならばいいだろう、というわけである。小谷温泉へ向かう途中に顔を見せた雨飾山(写真左)。少しのんびりしすぎたせいか、キャンプ場の駐車場にはすでに30台あまりの車がひしめいていた。休憩舎で登山と棘を提出して、7時10分に出発する。すでに日は高く昇り、じりじりと照りつける。登山道はしばらくゆるやかに標高を下げていく。さほどの標高差ではないが、帰りの登り返しがしんどいかもしれない(写真右)。
しばらくして湿原にかかる木道の橋を歩く(写真左)。湿原には夏を惜しむかのようにオタカラコウなどの花が咲いていたが、もう盛りは過ぎているようだった。木道は等高線に沿ってフラットに続く。どんどん飛ばして歩けそうだが、この先に待ち受けている急登をにらんで、ゆっくりゆっくりと心に言い聞かせて歩く。7時27分、フラットな等高線歩きはここでおしまい(写真右)。登山道は木道の右手を流れている大海川と分かれて左手に尾根にとりついている。これから急登だ。高度計は1150メートルを指している。25000分の1地形図を読むと雨飾山登山道のポイントは3つ。第1のポイントはここから標高差200メートルの急登にありそうだ。ここをできる限りゆっくりと登り今日のペースを作りたい。
登山道は小さな谷を左に見下ろしながら一気に高度を稼ぐ。この登山道は1969年につけられたということだが、ところどころに杭を打ち込んで板が埋め込まれた階段がしつらえてある。しかし登山道設置の頃には想像もできなかった大勢の登山者が押し寄せるのだろう。登山者が歩くことによって土壌が流出し、樹木の根が所々むき出しになっている(7時38分、写真左)。雨飾山一帯は冬の豪雪と夏の多雨によって年間降水量は非常に多い。そのため落葉広葉樹が一面に生い茂り土壌もよく発達している。このような所で根がむき出しになることは、まずありえない。発達する土壌を押し流してしまうほど、登山者が多いということだと思う。かくゆう我々もその一員なのだと、少し心が痛む。登山道は尾根から山腹を巻いて北上する頃には急登から少し緩やかな道へと変わる。8時42分、標高1610メートルの尾根に出る。眼前に突然雨飾山とフトンビシの岩盤が飛び込んでくる(写真右)。高くなる一方の気温とは裏腹に、もう秋を思わせるほど澄んでいる。ここから荒菅沢へ50メートルばかり急傾斜を下る。
荒菅沢にはまだ豊富に雪渓が残っていた(8時52分、写真左)。例年7月下旬までは雪渓が残るというが、8月下旬になってもこの雪の量である。右に開いている雪洞から雨飾山を覗いてみたい衝動を抑えながら、慎重に雪渓を横切る。雪渓中央では、荒菅沢を覆い尽くす雪渓とその奥にそびえる雨飾山、そして吸い込まれそうな青空が何枚もシャッターを切らせた。この夏の不純な天候を思うと、とても幸運な1日だ。真夏の暑さに文句など言っては罰が当たるというもの(写真右)。8時58分、雪渓を後にして荒菅沢北の尾根に伸びる登山道にとりつく。深田久弥氏は戦前2度登頂を試み、いずれも断念した後、戦後になって大海川から荒菅沢に入り、フトンビシの間のゴルジュを通り抜けて登頂している。我々がたどってきた登山道ができたのは、そのずっと後のことだ。
今日のルートの第2の、そして最大のポイントでもある急登をあえぎながら登る。打ち込まれた杭は所々抜け、ハシゴやロープがかかっているが、押し寄せる登山者に登山道は荒れているところが多い。来る人が多すぎるのだろう。9時1分、荒菅沢越しに雨飾山を望む。澄んだ青空とは対照的に夏色の緑がまぶしい(写真左)。ここから笹平までの標高差450メートルは実にしんどい。森林限界を超すと容赦なく太陽が照りつけ、まるで日干しになりそうだ。汗が噴き出し、それを補うように補水する。標高がそれほど高くないだけに暑さが堪える。外の登山者も日陰を求めては座り込み、のどを潤す姿ばかり目に付く。最もやっかいなのが、笹平を目前にしたハシコ゜とロープがかかった急登(10時18分、写真右)。紅葉シーズンに大渋滞となるというのは、ここのことだろう。
早朝に登って既に下山しようとする登山者などと譲りながら、急登を上り詰め、10時39分、標高1894メートルの笹平に着く。北東を見やると入山禁止となっている焼山の荒々しい姿が目に飛び込む(写真左)。一方南西には笹平の向こうに雨飾山の山頂が顔を出している。荒菅沢から望む雨飾山と違っておだやかな表情を見せている。山頂にはたくさんの人が立っているのが見える。ザックをここに置いてピークに向かう人もいるようだが、まあたいしたことはないだろうと、大休止後に出発。笹平にはまだハクサンフウロが咲いていたが、ミヤマリンドウやミヤマトリカブトも咲き始め、季節は秋に移り変わろうとしていることがよくわかった。ゆっくりと写真を撮りたいところだが、今日はお預け。
最後の急登は今日の行程で第3のポイントと踏んでいたが、ほんの一登りにすぎなかった。11時25分、山頂に到着。雨飾山には小さなピークが2つあって、どちらも満足感一杯にくつろぐ登山者でにぎわっていた。深田久弥氏はこの小さな双耳峰を「猫の耳のような小さなピークが睦まじげに寄り添って」と表現している。頂には360度の大展望が待っていた。写真右は後立山連峰。中央に白馬岳、その右に雪倉岳、朝日岳と連なる。白馬岳の左には雲の左に五竜岳と鹿島槍ヶ岳が雲に見え隠れしている。頂にある石仏はすべて越後側を向いていて、越後側が表玄関であることを示している。羅漢上人が自身で石を刻んで運び上げたという。
眼下に姫川下流と糸魚川、そして日本海を見る(写真左)。小休止後にもう一つのピークに行く。三角点はこちらに設置されていた。こちらにもたくさんの人が眺望を楽しんでいた。登山靴の紐をほどき、足を投げ出すと、そこは憩いの場だった。日差しは強かったが、涼しさがあふれていた。360度の展望写真は人の多さにあきらめるが、北には鬼ヶ面岳や駒ヶ岳といった岩稜に包まれた山々は、いつまでも見飽きることはなかった。
12時20分、山頂を後にする。登りがきつかっただけに、下りのしんどさが思いやられそうだ。笹平でもう一度360度見渡して名残を惜しんで、笹平から下るハシゴとロープにさしかかる。この時間になってもまだ登って来る人もあり、通過に手間取る。岩はほとんどが浮いていて、わずかな接触でも落石を繰り返す。そのロープに何人もの人がつかまって下りようとしているのだから、これは無理な話だ。何人かのグループが下りてしまうまで待ち、それからロープで下りることとする(12時58分、写真右)。帰路は太陽に向かって下ることとなり、暑さに体中の水分が出尽くしてしまうのではないかと思われるほど。今日は気温が上がりそうだと、水は十分に用意したつもりだったが、それも底が見えてきた。こうなったら雪渓の水場が頼り。そこまではしんぼう、しんぼう。下山路ではあるが、どの登山者も所々で腰を下ろしてあえいでいる。そういえば、登山時に下山者が汗びっしょりになってあえいでいたのは、このことだ。決して楽ではない。荒菅沢に下りると、下山者が雪渓から溶け出る水を思い思いに汲んでいた。我々も1リットルずつここで汲む。冷たくて、実においしい。持参したミネラルウォーターとは比べものにならないこのおいしさは、冷たさのせいだけではないだろう。
最後の急斜面を前にして大休止をした後に、一気に登山道を下る。湿原の木道に出たら、あとは登り返しを数度繰り返すと休憩舎が現れた。時刻はちょうど4時。休憩舎付近には下山者が自販機の缶ジュースを片手に一日の終わりに安堵するように座り込んでいる。手にするジュースはすべて500ミリリットル。やはり誰もが暑かったのだ、と納得してしまう。休憩舎前には地元の郵便局が手作りの絵はがきを売っていて、結構人気を集めていた。キャンプ場管理棟に寄って、念願の林明輝氏の写真集「あまかざりを手に入れて、帰路についた。
※雨飾山のことを知ったのは、実は深田久弥氏の「日本百名山」が初めてではない。毎年冬になると訪れる栂池高原スキー場のゲレンデスキーの定宿、ホテル・ベルハートさんのロビーに置かれている林明輝氏の写真集「あまかざり」を手にしたことによる。毎冬1〜2回宿泊するたびに飽きることなく見続けてきた。ここ数年、後立山登山の定宿となったアルペンロッジ岳都の横川さんからここからも十分日帰りできると聞いたのは昨年のこと。ようやく念願かなって、ここに雨飾山への山行がかなうこととなった。岳都さんへ戻ってから、この日の長野市の気温が34度というこの夏最高を記録したことを知り、暑かったはずだと合点した。宿泊先に戻っての生ビールは実に比喩しようもない程で、何倍もジョッキを重ねた。体中脱水症状だった。秋の渋滞はかなわんなぁ、と思いながらも、秋の雨飾山へもいつか行ってみたいと思うのだった。
*深田久弥氏にとって雨飾山がどのような意味を持つ山だったかを知ったのは、岐阜へ帰ってからのことだった。興味のある人は安宅夏夫氏の「日本百名山の背景」を一読していただきたい。これを読み、深田久弥氏の著作を読み返すにつれ、いつか時間がとれるようになったら静かな雨飾山を訪れてみたい、と思うのだった。