2002年12月12日
岐阜県岐阜市岐阜公園より馬の背コースにて

数日前の寒波で、美濃の山々は大雪。もう今年の山は終わりかと思ったものの、この日の午後時間ができたため金華山へと足を向けることにする。岐阜公園はこの日冬支度の雪つりが始まっていた(写真左)。またこの日は金華山ロープウエイの索道ワイヤーのはり替えのため、運休中とか。少なくとも山頂にはロープウエイで来た人はいない訳である。12時35分、馬の背コースを選択し歩き始める。少しずつ日差しも出てきたが、今日は午後は雲が厚くなる予想。つかの間の晴れ間か(写真右)。
12時33分、丸山到着。ここは伊奈波神社旧跡で石碑が立っている(写真左)。岩盤が露出しているが、かつて山頂の岐阜城の守りを固める丸山砦があったとされる。現在では地形は大きく改変され、岩盤が露出している。周囲に削平地などを認めることはできない。ここで瞑想の小径と分岐し、馬の背道が始まる。金華山登山ルートのうち、最も急峻なやせ尾根をたどる道である。しばらくやせ尾根をよじ登ると、樹木の根が板根状に岩盤にしがみついているのが見える(写真右)。前日の雨に濡れて少し滑りやすい。軽登山靴ではちょっとはずかしいか、と思ったものの、やはりこれで正解かもしれない。
樹木の間から岐阜市北部が見える(写真左)。中央は眉山。山頂が近くなり、所々に先日降った雪が残っていた。岐阜市あたりで市街地には積雪はなかったというが、やはり金華山山頂近くには残っていた。この馬の背コースはいつも金華山を歩くときに使うが、今日も誰も出会わない。静かな山歩きである。
13時09分、山頂直前に長良橋を見下ろす(写真左)。見にくいが、遠くの山並みには頂が白くなっている。13時12分、岐阜城天守閣前に到着。今日はのんびりと35分ほどで歩いたことになる。鉄筋コンクリート造りの天守閣はロープウエイ休業のため閉館かと思いきや、ちゃんと開いていた。そういえば、以前のロープウエイ休業の際も係員が登っておられたことを思い出す。写真右は山頂の金華山御嶽神社。去年の今頃登った時は、この向こうに真っ白な御嶽山がくっきりと見えていた。今日は残念ながら御嶽山も、恵那山も、そして中央アルプスの山々も見ることはできない。
山頂には予想以上の人が登ってきていた。ほとんどが瞑想の小径と七曲がりコースを選択しているらしい。写真左は天守直下の小規模な平地。かつて岐阜城の遺構は、後世の改変でほとんどその姿をとどめていない。写真右は長良川上流を見下ろす。
写真左は天守に至る尾根に設けられた堀切。ここも後世の改変が著しいが、明らかに堀切が入れられていたことをうかがうことができる。さてさて下山前はロープウエイ山頂駅でおでんに限ると、行ってみるとこれが閉店。ロープウエイが休業では商売にはならないか。山頂駅のすぐ前でヤマガラにピーナッツを与えておられた人を見かけた。ヤマガラも心得たもので、ピーナッツの袋をがさがささせると、もう近くの小枝にとまって様子をうかがっている。撮ってもいいよという声に甘えて、撮らせていただく。「こんなものばっかり食べて、脂肪の摂りすぎにならんかねぇ。」とはエサを与えておられた方の言葉。
帰路は七曲がりコースをとる。実は七曲がりコースは未だかつて歩いたことがない。あまりにも容易な道ということで、なんだか敬遠したくなる。しかしこのルートは岐阜城の大手道とされている。一度は歩いておきたい。現に途中の伝馬屋付近は後世の改変が少なく、城郭遺構が遺存していることが認められた。しかしこの他の七曲がり道は後世に拡幅され、戦国期あるいは織豊期の遺構を認めることは困難だ。写真左は七曲がり道を下りてくる途中に出会う、大堀切。この堀切によって、瑞龍寺山山塊と遮断している。14時30分、七曲がり登山口へ下山。人のいない静かな岐阜公園の茶店で、お好み焼きをほおばる。久しぶりの山は、登山とはいえないようなものだったが、実に爽快な数時間だった。写真右は岐阜城と青空に浮かぶ月。

※岐阜城のかつての姿はポルトガル人の宣教師ルイス・フロイスが『日本史』の永禄12年(1569)の条に記している。ルイス・フロイスは山麓の居館(彼は宮殿と呼んでいる)を詳細に紹介した後、信長の招きによって金華山を登ったことを記している。「何びとも登城してはならぬことは厳命であり、犯すべからざる禁令で、彼は登城をごくわずかな人に許可しているに過ぎません。」という中を、誇らしげに登っている。現在その登城ルートは七曲がり道か百曲がり道と考えられている。続いて金華山上の城について「上の城に登ると、入口の最初の3つの広間には、約100名以上の若い貴人がいた」とも記している。現在金華山山頂のどこにそんな空間があったのかと驚くしかないが、ルイス・フロイスによると山上には信長が妻子と共に居住していたと記している。狭い平坦地は建物で埋め尽くされていたということだろうか。山上の所々に残る石垣は居住空間を確保するための信長の手法かもしれない、などと想像を巡らせながら登るのも楽しい。なお、岐阜公園には千畳敷に至る発達した喰違い虎口が復元整備されている。発掘調査の結果はルイス・フロイスが記録に残した四階建ての宮殿跡とは考えられないものだったが、ルイス・フロイスの描いた世界を目の当たりに見せてくれる。